博多座文楽公演(2025年11月08日、午後の部)
「伊賀越道中双六 沼津の段」「日高川入相花王 渡し場の段」を見た。太夫や人形役割についても書くべきなのだろうが、私は、彼らの名前を知らない。知らないことを書いてもはじまらないので、書かない。
「沼津の段」は、「仇討ち」「義理と人情」というものが、かなり遠い世界になってしまっているので、ぱっと見た目には細部の事情はわからないのだが、ハイライトの「父の切腹」のシーンは、人間関係(義理/仇討ち、人情/親子)を突き破って動くものがある。あるいは、それが人間関係の基本であり、その基本が動くといえばいいのか。
切腹して死んでいく父に、息子が「南無阿弥陀仏」と言え、と告げる。父が「南無阿弥陀仏」と言い、息子も「南無阿弥陀仏」ととなえる。その瞬間、「人間の世」が「人間の世」を超越する。
私は、宗教を信じていないが、宗教を信じているひとのことばの「響き」には何か、肉体が突き動かされる。
私の母は無学で、何か困ったことがあると(たとえば父が病気になったとか、兄が金を落としたとか)、すぐに仏壇の前にすわり「南無阿弥陀仏」ととなえていたが、あの瞬間、母は母なりに、母を超えた、何か絶対的な「真理/法」とでも言うべきもの触れていたのだといまは感じる。「南無阿弥陀仏」が効果があったというわけではないかもしれないが、自分を超えるもの、ことばの先にあるものと一体になることで、落ち着きを手に入れていたのだろう。私にはわからない「やすらぎ」があった。あの母の姿を思い出すと、ああ、あれが私の母なのだと静かな気持ちになる。
「沼津の段」の「南無阿弥陀仏」とは関係ないのだが、「南無阿弥陀仏」という声の中に、母が感じていただろう「やすらぎ」を感じた。どうすることもできないのに、どうすることもできないことを人間は受け入れることができる。そのときの、不思議な「やすらぎ」。
芝居(歌舞伎)では、このときの息子と父の「南無阿弥陀仏」はふたりの人間が発する声になるが、文楽では太夫ひとり。それがまた、とてもいい感じである。一体になり、ひとりであることを超え、さらに人間を超える。そして、さらに人間になる。その瞬間。
死は不幸なものである。しかし、その死が、何かを浄化する。これは、ギリシャ悲劇からつづく人間の感動のひとつなのだろう。
さて。
感動しながらも、私は、少し不満も持った。それは「博多座」という会場に問題があるのだと思う。博多座は音響がとてもいい。声は、とてもよく通る。いや、通りすぎるのかもしれない。私を通り越してしまうのである。私のところで止まらない。いそいでつかまえないといけない。
文楽は歌舞伎に比べて濃密な世界である。感情が凝縮している。その濃密、凝縮にあわせるように、声は「場」のなかでしばらくとどまっていてほしい。博多座は広すぎて、その濃密になっていく感じに欠ける。
濃密、凝縮と書いたついでに、ひとつ思いついたことを書いておく。
文楽は人形が演じる。人形を動かすひとが、いっしょに舞台にいる。これは本物ではありません、人形です、と「フィクション」を強調するのだが、この方法が濃密・凝縮の感じを邪魔しない。むしろ、歌舞伎よりも、強い感じがする。それは、人形をつかうひとが見える、いつも一種の「夾雑物」があるということの効果かもしれない。夾雑物が「集中」を促進する。それは、あるいは「呼吸の一致」と関係しているかもしれない。人形と、人形をあやつるひとの呼吸が一致したとき、人形の動きはなまなましくなる。博多座のように広い会場では、その呼吸の一致が、やはり拡散してしまう。
呼吸をしっかり感じ取ることができる(呼吸を受け止め、それにあわせて呼吸ができる)会場で、もう一度見たみたいと思った。