「宝島」の問題点 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 映画「宝島」が真藤順丈の小説をもとにしている、というのだったら、この映画の「欠点(問題点)」は、そのまま小説の「問題点(欠点)」でもある。小説を読んでいないので私の推測は間違っているかもしれないが、よく直木賞を受賞できたものだとあきれかえる。
 この映画のポイントは、沖縄の米軍基地に侵入した若者たちか基地からさまざまな物資を盗み出すこと。ある日、「盗み出し」に失敗する。そして、そのリーダーの行方がわからなくなる。米軍につかまり、処刑されたのか(殺されたのか)、あるいは無事に逃げ出し生きているのか。その「行方」をめぐって、かつての仲間が動く。その過程で、リーダーが、とても大事なものを盗み出したことがわかる。そのため、その事件は「なかったこと」にされる。事件前後(?)の4日間関係書類などは処分され、箝口令が敷かれる。
 さて、その「貴重なもの(宝)」は何なのか。
 これが、なんともばからしい。赤ん坊である。米軍基地の、上層部のだれかを父とする赤ん坊。女は、出産後死ぬ。その遺体は、処分される。(なかったものにされる。)この赤ん坊のいのちを守るために、リーダーは姿を消した、というのが、この映画(小説)の隠れた「本筋」であるらしいのだが。
 生まれたこどものいのちを守る、そのために姿を隠し、子供を育てる。それはそれで、とても重要なテーマになるのだが。
 ばかばかしいのは、その生まれたこどもが、いったい沖縄と米軍(アメリカ)との関係にどう影響を与えるか。沖縄をアメリカから「独立」させる運動のなかで、どんな役割を担うことになるのか。そのことが何も語られず、ただ米軍は「司令官の子(将校の子)」を否定する、基地の上層部が他の兵隊と同じように沖縄の女性を「性奴隷」としてつかっていたことが「暗示」されるだけである。それがほんとうだとして、そのときの具体的な動きが、ぜんぜん描かれていないことである。せめて、「証拠文書」を破棄するシーンくらいはっきり描かないと、なんの意味もない。
 沖縄には、米兵を父とするこどもがいる。そのなかには、父親の「認知」がないこどももいるだろう。もし、そのことを問題にするなら、そこから小説(映画)は描かれるべきである。「認知されていない米兵のこども」を、沖縄から米基地を撤退させる運動の原動力にするというのなら、もっと違う描き方があるはずだ。
 どういう運動をすれば、彼ら、「米兵に認知されないこども」(あるいは、認知されても一緒に暮らしていないこども)を、「沖縄の宝」として「沖縄の未来」を切り開く力にするのか。そういうことがまったく提示されないのであれば、単にリーダーが身を隠したことについての「謎解きゲーム」になってしまう。しかも、その「謎解きゲーム」の出発点である赤ん坊の誕生をほんとうに知っている(目撃している)のは身を隠したリーダーだけというのでは、これはもう、ご都合主義の「嘘」である。でっち上げである。女が生んだ赤ん坊の父親は、下っぱの米兵かもしれない。日本人かもしれない。沖縄県人かもしれない。
 この「嘘」をごまかすために、赤ん坊のへその緒を歯で嚙み切る、呼吸の止まっている赤ん坊に人工呼吸をする、尻を叩くという「アクション」を描写しなければならない。ついでに、嚙み切ったへその緒をどうやって縛ったのか、それも「見せる」べきだろう。刺激的なシーン、絵になりやすいシーンだけで「嘘」をごまかそうとする姿勢が、私には許せない。
 こんな「でたらめ」で、ほんとうに「小説」が成り立っているのかどうか、私は疑問に思う。(映画は、完全に、駄作。)
 この映画(この原作小説)には「宝」など、描かれていないのだ。「宝」は、どうやって輝かせるべきなのか、それが描かれていない。もとは「宝」ではなくても、その「鍛え方」で「宝」が生まれる、というのは映画「国宝」に描かれていた。沖縄で生まれたこども、沖縄の「自律」をめざす運動を「宝」として描くなら、人間を「どう鍛えていくか」を描かなければならない。「宝(美しいもの)」を生み出すのは、たゆまない努力、精神の力である。この映画は(そして小説も)、それを描こうとはしていない。沖縄を舞台にしただけの、沖縄を愚弄する作品である。
 「国宝」と「宝島」、ふたつの「宝」の映画は、おなじ「宝」という文字をつかいながら、まったく違うものである。