阿部恭久「イッテキマス(七五)」 | 詩はどこにあるか

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阿部恭久「イッテキマス(七五)」(「生き事」20、2025年秋)

 阿部恭久「イッテキマス(七五)」は、全行を引用したくなる詩である。タイトルの(七五)は、新聞に見かける年齢のスタイルで表記されているが、私のワープロでは操作が難しいので、簡略化してしまった。

明け方
天窓の階段室を下りた

居間の窓を開け
食堂の戸を引き
台所は窓を上げ

庭へ ひらく

新聞紙を取りに出る

プレイボール!
一回表一番大谷
フェンス直撃の二塁打、

居間は中継のまま
朝食にかかる



ナイフ
フォーク
コップ
カップ

食パンを截って
バターを截り
ベイコンエッグを拵えた、

フライパンをかたづけ
トースターのスイッチを入れ
オレンジジュースを注ぎ
食事をはじめた、
半ばでコーヒーを淹れる

食堂、
居間、
台所、
行ったり、来たり…

旧惑星の終わりがけ

大谷の三本目のホームランを観て
家を出た

九月も二十日にして三十七度の予報

 さて、「イッテキマス」はだれに言ったのか。自分自身に、あるいは家に対して言ったのだろう。阿部が家を出たあと、そこにはだれもいないのかもしれない。帰って来たら「タダイマ」と言うだろう。それも、自分に、家に対して言うのだろう。
 大谷についての描写と最終行をのぞけば、その他の行は、毎日繰りかえされているだろう。繰りかえし繰りかえし、繰りかえすことで整えられた「生活」がある。生活が阿部のことばを整えるのではなく、ことばが阿部の生活を整えている。鍛えている。
 その静かな交渉、無駄のない交渉がとても静かで美しい。
 とくに、三連目の「庭へ ひらく」の「ひらく」がいい。何を「ひらく」のか。「文法」的には、閉ざされていた家(の窓、戸)を開くのだが、阿部自身の「肉体」をひらくとも読むことができる。
 家が、生活が、そのまま「肉体」になっている。それが、この詩を美しくしている。