こころは存在するか(60) | 詩はどこにあるか

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 美しさ(優美さ)とは何か。鍛えられた力である。
 歌舞伎が優美であるとしたら、その表現の奥底に鍛えられた肉体があるからである。それは映画「国宝」の少年が、「骨で覚えろ」と鍛えられるシーンに象徴されている。肉体、それも「骨(芯)」から動きを身につける。だから、あの映画のクライマックスの壊疽で片足を失った男の姿(「曽根崎心中」のおはつの姿、その芸)は、差別的な言い方になるかもしれないが、優美ではない。鍛えられた肉体の力が、そこには存在しないからである。しかし、その不在を補うものがある。鍛えられた精神である。これを歌舞伎に対する「鍛えられた熱意の力」と呼んでもいい。「愛の力」である。それは持って生まれたもの以上である。歌舞伎を生きることで身につけた、「鍛えられた力」である。

 「こころは存在するか」は、だんだん「日記」になってきたかもしれない。そのことが気になり断続的というか、中断していたのだが、「論文」を書くつもりはないので、脱線しながら「日記」のまま書いていくことにする。
 ブログ「詩はどこにあるか」の他の文章(映画や詩の感想)とも重複することが多いので、それもあわせて読んでほしい。

 大岡昇平(なかなか読み終わることができない)の「読書の弊害について」というエッセイがある。(全集、14)そのなかに、次の文章。

すべて思想は自ら考えて達すべきであって、人から教えられるべきものではないのである。

 ただ自分で考えればいい。ことばを動かせばいい。間違っていたっていい。主観であっていい。
 しかし、次の文章は、別のことを語る。

文学作品だって、翻訳してみると、通読した際に見逃した細かい個所に、難点があり、考うべき点が見つかるのである。

 大岡が書いているのは、フランス語を日本語に翻訳してみると、というようなことかもしれないが、私は、逆のことを考えた。
 私はスペイン語を勉強中だが、私の書いた文章をスペイン語に翻訳しようとすると、どうもうまくいかない。「グーグル翻訳」をつかってみると、もっとでたらめである。(でたらめなスペイン語だと直感する。)
 私は「こころは存在しない」、しかし「ことばある」と考える。その「ことば」、自分のことばが、どうも、あやふやである。日本語で書くとき(考えるとき)、自分だけで納得してしまっていて、スペイン語にするときには、いろいろ「補う」必要がある。補わないと、でたらめになる。意味が通じなくなる。
 これは、もしかすると「日本人同士」のやりとりでもおなじかもしれない。私の「肉体」のなかにあり、それは「ことばにはなっていないことば」のまま動いている。これをなんらかの形で明るみに出さないと、他人にはつたわらないのである。
 「思想」は「自ら考えて達すべき」ものであっても、自分で「達した」と思っているだけでは、どこかに「欠落」がある。そして、その「欠落」をひとつずつ埋めていくためには、「翻訳」することが必要なのだ。それはきっと「骨を鍛える」(骨の力を鍛える)ということだと思う。

 「飛躍」が多くて、だれにも私の書いていることがつたわらないかもしれない。私にも、実は、その「飛躍」が完全につかめているわけではない。書きつづければ、いつか飛躍は飛躍でなくなるだろう。