大友啓史監督「宝島」(★)(2025年09月21日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン2)
監督 大友啓史 出演 妻夫木聡、広瀬すず、窪田正孝
大友啓史監督は、脚本にも絡んでいる。どの程度、大友啓史の「視点」が加わっているのかわからないが、脚本とカメラ(撮影)が、ともかく、むごい。原作小説は読んでいないが、小説ならば(ことばならば)、それなりに説得力があるかもしれないのに、それが映像になると、ばかばかしくなるものがある。
タイトルが表示される前の、イントロダクション。これが視線を引きつけるどころが、えっ、こんな映像を3時間も見せられるのかとげんなりするひどさ。主人公たちが米軍基地内でアメリカ兵の車に追いかけられているのだが、その緊迫感が全くない。これから夜のピクニック(ドライブ、ではない)に行く、という感じ。その延長にある「森」のなか。セットであることが、一目でわかる。沖縄がむりなら沖縄でなくてもいいから、ちゃんと「森」のなかで撮影しろ、スタジオにセットなんかつくるな、と思ってしまう。
この森はラスト近くでもう一度出てくる。そして映画のなかで、核心のシーンの背景になるのだが、セットなんかで安上がりにすませちゃって……という気持ちが先にあるから、もう、ばからしくて見ていられない。そんなところで、赤ん坊を生んで死んでいく女、産声を上げることもできなかった赤ん坊のへその緒を噛み切り、人工呼吸と尻を叩く刺戟で蘇生させるシーンを見ても、これは単にストーリーを説明するだけのシーンであって、映画にとっては何の必然性もない、ばかばかしいという気持ちにしかならない。(逆説的だが、このシーンこそ、単純に「ことば」で説明すればいいのだ。それを見たひとはいないのだから。へそを噛み切った男が、そのことを語ったわけでもない。第三者の、そして、諸説の原作者の考えた「ストーリー」なのだから。)
このシーンは、まだ「せりふ」がないから、ましな方かもしれない。あとはせりふ、せりふ、せりふの連続で、「ことば」での説明があるだけで、映像がストーリーを動かしていくわけではない。大友啓史が「せりふ」の部分にも絡んでいるとしたら、大友は映像で語るということを知らない監督なのだ。「せりふ」を削除して、それでも「ことば」がつたわってくるのが映画というものだ。
ゴザの「暴動」のシーンに金と時間をかけすぎて、ほかの部分を撮影するエネルギーが残っていなかったのかもしれないが、このシーンにしてもひどいものだ。妻夫木聡、広瀬すずがその場に立ち会っていることには「意味」があるのだが、そこにいるのが妻夫木聡、広瀬すずであるとわからせるために、彼らを群衆と切り離してしまうのは、どうしてなのか。群衆、暴動が、舞台の書き割りの絵のようになってしまっているのはどうしてなのか。群衆のなかにいても、ちらりと見えるだけでも、それが妻夫木聡、広瀬すずとわかるように撮らないといけない。それがわかる演技をさせないといけない。それができないのは、簡単に言いなおせば、妻夫木聡、広瀬すずにも「存在感」がないということだ。彼らは「ことば(せりふ)」の伝達者にすぎない。
私の、ひとつ席をあけた隣の女が、「せりふ」を聞きながら泣きじゃくっていたが、私は映画にではなく、その女の感受性に感動し、同時に笑いだしたくなってしまって、笑いをこらえるのに必死だった。本読む時間がなくて、「せりふ」を聞いてストーリーを把握し、それで映画を見た気持ちになれるのか(本を読んだかわりになるのか)、と、なんだかどうでもいいようなことを考えながら、私は3時間、我慢していた。
だいたい、こんな「ことば」の映画に、なぜ3時間も必要なのか、それがぜんぜんわからない。「国宝」が長くてもヒットしているのを見て、長くした方がヒットするかもしれないと思ったのだろうか。
文句ばかり書いているといやになる。ひとつだけ、いいシーンについて書いておく。
広瀬すずが窪田正孝に襲われそうになる。(強姦されそうになる。)そのとき、広瀬すずが永山瑛太と「おなじ匂いがする」という。これも「せりふ」ではあるのだが、アクションとからまっているのと、「おなじ匂いがする」だけでは「意味」がはっきりしないところが、とてもいい。広瀬すずと永山瑛太は、まだセックスをしていなはずだが(ほかの男ともセックスをしていない設定だと思うが)、そういうときでも女は男の匂いを肉体で知っているというのが、とてもいい。大岡昇平の小説に出てくる女のようだ。どきっ、とする。そして、その一種、言われた男には瞬間的に何を言われたのかわからない「ことば」(一言)から、広瀬すずと窪田正孝の立場が逆になる。ここだけは「映画」だった。
長いドラマなので、こういう「瞬間」が、登場人物の間で何回かあったはずである。それが他のシーンでは、単に「ことば(せりふ)」のやりとりがあるだけで、「肉体」の交渉がない。そのことが、この映画を「金返せ(時間も返せ)」映画にしてしまっている。