ウェス・アンダーソン監督「ザ・ザ・コルダのフェニキア計画」(2) | 詩はどこにあるか

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 ウェス・アンダーソン監督は、「見たい」映像を撮っている。そして、その特徴は、「見たことがある」映像よりも美しい。美しい映像が「見たい」、美しい映像を「見せたい」。その欲望に「ほんとう」がある。
 私は、それに反応する。そして、「美しい」と思う。これが「見たかった」という私自身の「欲望」を発見する。
 そういう「構造」で映画がつくられているから。

 ほら、「天国(?)」のシーン、あれは美しくない、でしょ?
 なぜといって、「天国」も「神」も私は「見たことがない」から、比較しようがない。ウェス・アンダーソンが見せてくれる天国が「美しい」かどうか、判断のしようがない。だから、何回か登場する「天国」のシーンだけは、私は退屈だった。ストーリーを追っているだけだった。
 見たことがある(それが写真であっても)シーンならば、それは判断できる。飛行機が墜落する。トウモロコシ畑。枯れたトウモロコシ、散らばる飛行機の残骸。それは、基本的に「美しくない」。しかし、ウェス・アンダーソンにかかると、それが「美しい」。あ、こういう色の枯れたトウモロコシ畑、壊れた飛行機の残骸を見てみたい。
 飛行機ついでにいえば、あの飛行機の客室、ドアや椅子は、私は飛行機では見たことがない。古い列車の内部のような色合い。あ、飛行機が、あんな色で構成されていたら、あたたかい気持ちになるだろうなあ、ゆったりするだろうなあ、と思う。ああいう飛行機で、外国へ行ってみたい。気分がいいだろうなあ。
 逆は、こんなシーン。
 ベニチオ・デル・トロが底無し沼(?)に引き込まれる。そして助け出される。そのときの「泥まみれ」の姿。その姿は、まあ、「リアル」ではない。泥が、あんなに緊密に、絵の具を塗ったように全身を被うわけがない。しかし、それだからこそ、安心して「美しい」と思ってみることができる。
 こういうところに、たぶん、ウェス・アンダーソンの「真骨頂」のようなものがある。

 だから、といっていいのかどうか、実はわからないのだが。

 役者は、別に演技しなくてもいい。そこにいる、ということが大切。そして、そこにいるだけで、「あ、このひとを好きになりそう」と感じさせてくれればいいのである。「演技」は必要がない。なぜかといえば。「演技」を見ているうちに、その登場人物に感情移入してしまうと、その役者が「美形」でなくても「美しく」見えてくる。「共感」が対象を「美しく」見せる。
 バーブラ・ストライザンドを例に出すと、バーブラのファンに怒られるかもしれないけれど(私もバーブラのファンなのだけれど)、彼女は「美人」ではない。しかし、演技を見ていると「美しい」と思ってしまう。感情の動きがくっきりと見えてきて、共感してしまう。共感すると「醜さ」は消えるものなのである。
 バスケットの対戦。トム・ハンクスは、もちろん演技もするのだが、相手がボールをもって動いているのを、ただ突っ立ってみているシーンがある。そのとき、「あ、トム・ハンクスが突っ立っている」と思えるかどうか。そう、思わせることができるかどうか。トム・ハンクスは、そういうことを思わせることができる。つまり「存在感」がある。存在感とは、「美しい」ということでもある。
 はじめて見るミア・スレアプレトン。修道女(見習い?)のカッコウをしているけれど。ふと、彼女の乳房の下には黒子があるかなあ、背中にあるかなあ、なんて、ストーリーとは関係なく思ってしまう。そういう「欲望」を引き出すものが「美しい」、「存在感がある」というのだと思う。これは、私のかってな定義、です。
 つまり、この映画は、どこまでもどこまでも「主観」で見る映画だ。
 他人の「評価」なんて、関係がない。「評価/感想」をだれかと「共有」できなくても、そんなことは問題がない。自分自身で、何か語ることがあるかどうか、「主観」を言うことができるかどうかが問題なのだ。
 だから、私は「主観」だけを書いている。