こころは存在するか(59) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 大岡昇平の「椿姫」(全集12、筑摩書房)のなかに、「人間は自分で死んでもいいな、と思うまではなかなか死ねないものですよ」というセリフが出てくる。
 私の場合、読みたいと思っている本が読み終わるまでは死ねないことになる。
 これは、ある意味では、励みになる。
 私の家は貧しくて本がなかった。本を買ってとは言えなかった。
 勉強は、働いてから、金が貯まってからと思っていたが、それは間違いだった。
 若い時に、借金してでも勉強しなければいけなかったのだ。
 しかし、若い人間に、勉強したいからという理由で、金を貸してくれるところはないだろう。
 だいたい、若いときは、そんなことを思いもつかない。
 人間に必要なのは「教育(勉強)」なのだと、つくづく思う。

 さて、「勉強」とは何なのか。
 ひとはだれでも、それぞれの体験(経験)を持っている。それを語ることもできる。しかし、それを語る「自分のことば」は正しいのか。ひとつのことを語る、「別のことば」があるのではないか。
 大岡昇平には「野火」「レイテ戦記」という彼の体験を踏まえた作品がある。「レイテ戦記」は、彼の「体験」を離れてというか、彼の「体験」をより明確にするために、ほかのひとが、あのときの「状況」をどう「ことば」にしたかを調べ、それを踏まえて「世界」を組み立て直している。
 「勉強」とは、こういうことをいうのである。
 他人の「ことば」(他人の思想)と自分の「ことば(思想)」を比較、検討し、そこから「正しい」と判断できるものを選び出すことなのだ。「正しい」を広げていって、その広がりのなかに、自分を、自分のことばを置き直すことなのだ。そのとき、自分のことばがどんな運動を展開できるかを確かめることなのだ。
 ひとは、自分の体験を書くのではない。
 ひとは、少なくとも大岡昇平は、彼自身の体験を書くのではなく、彼が「勉強したこと」を書くのである。つまり、彼のことばを、他人のことばと接続させ(交流させ)、そこから自分のことばをさらにどう運動させることができるかを書くのである。そして、それは「人間の可能性」を書くことにほかならない。
 これは、森鴎外もおなじだと私は感じている。
 いや、私の好きな作家は、みな同じことをしている。
 自分のことばをどう動かすことができるか。それは自分だけの力ではできない。他人のことば、その運動のあり方を学ばなければできない。ひとは、学んだことだけを書くことができる。
 いま読んでいる「堺港攘夷始末」には、森鴎外批判が、さっと書かれている。森鴎外が「間違えた」のは、簡単に言えば、大岡昇平が「勉強することができた他人のことば」を、当時の森鴎外が読むことができなかったという一点によっている。
 「正しくある」ためには、どこまでもどこまでも、他人のことばが必要なのである。つまり、はてしなく「勉強」することが必要なのである。

 「こころ」は存在しない。ただ「学ぶ」という行為だけがある。