犬童一心監督「六つの顔」(★)(KBCシネマ、スクリーン2、2025年08月22日)
監督 犬童一心 出演 野村万作
野村万作が2023年には文化勲章を受章した。その翌年受章記念公演があり、「川上」を上演した。その記録が、この映画のメイン。
ところが、この肝心の「川上」のシーンがおもしろくない。私は、野村万作の狂言を実際に見たことはない。テレビで断片を見たことがあると思うけれど、狂言の全編を見たことはない。だから、私の感想は、かなりとんちんかんなものを含んでいると思うが、ともかくおもしろくない。
「川上」の前に紹介される「釣狐(だったかな?)」の断片がおもしろいのに、「川上」の全編がおもしろくない。
理由は簡単である。カメラが緊張している。映画の利点は、なんどでも撮り直しがきくことだが、今回の場合、文化勲章受賞記念公演であり、それを「記録(撮影)」するチャンスは一回しかない。失敗は許されない。野村万作と息子の野村萬斎が失敗を許されないのではなく、撮影者の失敗が許されない。リハーサルというか、どの場面をどう撮るかということは事前に「打ち合わせ」をしたと思うが、そして打ち合わせをしたためなのかもしれないが、カメラに「自由」がない。
簡単に言いなおすと、撮影しているカメラマンが野村万作の演技に引きつけられて、思わず野村万作に近づいてしまう、というようなシーンがない。「釣狐」では狐の姿に自然にカメラが近づき、その動きに集中するのと比較すると、その違いがわかる。カメラの焦点に、見ているものの「感情」がない。
これが、とても変な印象(つまらないという印象)を与える大きな原因である。実際に劇場で舞台を見ている(役者を見ている)とき、私の視線の「焦点」は、実は、瞬間瞬間にかわる。役者の視線の動きを見たり、手の動きを見たり、足の動きを見たり。微妙に「フレーム」を調整し、役者に近づいたり、離れたりする。
この映画のカメラには、そういう動きがない。
それだけ「客観」に徹している。ドキュメントに徹している、ということかもしれないが、そういう「説明」はくだらない。ようするに、撮影しているカメラマンは、野村万作の肉体には無関心で、単に「ストーリー」を「正確」に追うことだけに徹しているのである。これでは映画ではない。
それに、一回限りの撮影であるはずなのに、どうも一貫性がない。複数のカメラの「呼吸(の一致)」というものが感じられない。複数のカメラがあり、複数のカメラマンがいるから、どうしても印象が散漫になるということかもしれないが、もしそうだとしたら、それはカメラマンの責任だけではなく、野村万作の責任(野村万作の狂言に一貫した迫力がない、すでにそういう力を失っている)ということかもしれない。そういう意味では、たしかに「晩年」の「記念」としての映像であっても、彼の「芸」の魅力を伝えるものではない。そう諦観して見ればいいのかもしれない。そんなことさえ思ってしまう。
それにしても。
つくずく思うのは、芝居(歌舞伎でも狂言でも、その他の芝居でもいいが)というものは、やはり劇場(能楽堂)で見るべきものなのだろう。映画では、役者の動きの細部はわかっても、動きによって劇場の空気がどう動くかということが伝わってこない。カメラによって「中継」されるのは役者の動きであって、それにともなう空気の動きはカットされてしまう(排除されてしまう)。
野村万作の「記念公演」の記録としては貴重なものになるのかもしれないが、野村万作の魅力を伝えているとは言えないし、記録されている舞台が野村万作の最高傑作であるとも言えないだろう。野村万作を見たことがない私が言っても説得力を持たないだろうが、この映画を見て野村万作を見たという気持ちになってはいけないだろう。むしろ見ない方がいいだろう。あれが野村万作だと思ったとしたら、それはきっと大間違いだと思う。
野村万作は、いろいろ語ってもいるのだが、なんだか、野村万作がかわいそうになってしまった。舞台の動きだけでは何も伝えることができず、それをあとから「ことば」で解説しなければならないとしたら、それは「舞台」ではないからね。芝居がうまくいかなかったとき、ひとは、それを「ことば」で説明する。こんな編集をした犬童一心は、まあ、野村万作の狂言を理解していないということだろうなあ。
付け加えておくと。
私が批判しているのは、野村万作の狂言ではなく、あくまで、この映画のあり方である。映画になっていないということである。
これは、いま人気の「国宝」が映画としてすばらしいのであって、映画のなかの歌舞伎そのものがすばらしいということではない、ということに通じる。(「国宝」のなかでは、屋上での乱れ舞いのシーンが、舞いそのものとして、あの映画のなかでは最高のものだと私は思う。)
「六つの顔」は、ちょうど「国宝」の対極にある。裏返しの関係にある。