堤隆夫「わたしも空 あなたも空」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年08月04日)
受講生の作品ほか。
わたしも空 あなたも空 堤隆夫
わたしもあなたも 広大な宇宙の中の
地球の一地点のここに
今 いる
地球の空気の中に ただよいながら
今 共にいる
ちっぽけなわたしは 空気を吸って吐いて
広漠無限大の宇宙と つながっている
つながっているがゆえに
わたしのからだの中には 宇宙がある
しかし 宇宙はわたしの五感では 感じとれない
感じとれないわたしのからだの中の空の世界は 広漠無限大
空の世界には
惜別の悲しみも 病の苦しみも
不条理なるものへの怒りも
朝の来ない絶望も無い
宇宙とわたしは ひとつづきの世界
空にはわたしたちが思い悩むようなことは 何も無い
わたしもあなたも いのちが誕生した三十六億年前からの空の中に
今 共にいる
わたしも空 あなたも空
読みながら、私は二連目の「つながっているがゆえに」に思わず傍線を引いた。前の行の「つながっている」を受け、「つながっている」を強調しながら「ゆえに」とつづける。しかし、この「ゆえに」は実はふつうの「ゆえに」とは少し違う。A=B、B=C、ゆえにA=Cのような客観的(数学的?)な「ゆえに」ではなく「主観的」である。つまり、堤の発明した「ゆえに」動いている。「ゆえに」と書くことで、「飛躍(独自の想像力)」を「論理的」だと、強引に主張するのである。「主観の強調」、それは詩である。
堤は、ここでは一回しか「ゆえに」をつかっていないが、それは別のところにも隠れている。
感じとれない「がゆえに」わたしのからだの中の空の世界は 広漠無限大
「広漠無限大がゆえに」
空の世界には
惜別の悲しみも 病の苦しみも
不条理なるものへの怒りも
朝の来ない絶望も無い
宇宙とわたしは ひとつづきの世界
「ひとつづきの世界であるがゆえに」
空にはわたしたちが思い悩むようなことは 何も無い
「何も無いがゆえに」
わたしもあなたも いのちが誕生した三十六億年前からの空の中に
今 共にいる
「共にいるがゆえに」
わたしも空 あなたも空
鍵括弧の部分は私が補った部分である。補った方が「論理的」によくわかるだろうと思う。ことばの運動、詩の構造がわかると思う。もちろん、私がつけくわえた部分はいらない。ない方がすっきりする。
問題は、なぜ二連目だけに「ゆえに」を書いたかである。できれば書きたくなかったかもしれない。しかし、無意識に出てしまったのだ。無意識だから、そこにどんな意味があるか問われたら堤は困るかもしれない。
こういう無意識のことば、肉体にしみついたことば、これを私は「キーワード」と呼んでいる。だれもがそれぞれの「キーワード」を持っている。そして、それは、こんなふうに特別なことばではない。だれもが知っていることばである。
「キーワード」を補いながら詩を読むと、作者の抱え込んでいる言語空間の構造がわかりやすくなると思う。
*
みがるななつ 青柳俊哉
しづかになく蝉
七月のきゅうりがうすくすけて
茄子とピーマンのみがちいさくふくらむ
わたしはすこしみがかるくなる
せみがないて わたしはかるくなる
つるの南瓜 畔のむしとり撫子がよくのびる
しろいコッペパンのふわふわをたべてわたしはもっとあかるい
棚田のみずの火照命があせだくにぬれて
びょんびょんと早苗のようにあぜの土手をはしる
くつもしゃつもわたしもぬれてはしる
もっとしろいあかるいそらへ
七月の羽がしづかにすけて
一連目から二連目にかけて、「わたしはすこしみがかるくなる」「せみがないて わたしはかるくなる」と「わたしは/かるくなる」が繰りかえされている。この連絡に、それでは堤がつかった「ゆえに」をつかえるか。
たぶん、どこかで「ゆえに」があるからこそ、あるいは「イコール」で結びつけるものがあるからこそ「かるくなる」が共通しているのだが、その運動を支えるのは、堤の「論理」とは違う。もっと感覚的なものだろう。
終わりから二連目の「ぬれて」「はしる」のことばの奥に、何か、青柳の肉体にしかつかみきれない「連絡」がある。それは一連目と最終連の「すけて」にも言えるだろう。この「呼応(連絡)」がもっと明確になると、詩が鮮明になると思う。
「しろいコッペパンのふわふわをたべてわたしはもっとあかるい」という一行がもっと強烈になり、「もっとしろいあかるいそらへ」の「あかるい」が強烈になると思う。
*
取る 池田清子
ずっと座っていると
腰とももが痛い
ずっと立っていると
ふくらはぎが痛い
年を取った
誰から
何から
奪った
盗んだ
きっと
もっと生きたくても
生きられなかった人から
もらったんだ
「取る」、「年を取る」。この「取る」から「奪う」「盗む」が引き出され、それが「もらう」へと変化する。この変化のなかに、池田の肉体のことば(無意識)が動いている。
「もっと生きたくても/生きられなかった人から/もらったんだ」は美しい展開である。そして、その「展開」を支える「無意識(キーワード)」は「きっと」である。この「きっと」は、では、どこに補うことができるか。どこに隠れているか。
二連目である。
「きっと」年を取った(のだ)
自分の肉体を確かめている。確信している。それが強い自覚だからこそ、最終連で姿をあらわす。「たぶん」ではだめなのだ。「きっと」でなければならないのだ。
最後の「もらったんだ」も、とてもいい。「いただいたんだ」と書かずに「もらう」という動詞をつかっているところに人間のあたたかさを感じるのは私だけだろうか。(私は、あまりにもていねいなことばは、どうもなじめない。)