沢田敏子『祝祭の種』(書肆子午線、2025年07月31日発行)
沢田敏子『祝祭の種』の巻頭の「草茫々」にひきつけられた。
くさ ぼうぼう
も ときには よいことがあるのだった
くさ ぼうぼう の
なつに うまれた虫が
ねむれない 一夜の
窓のそと
くさ ぼうぼうのなかで
しきりに鳴いてくれるので
くさ ぼうぼうに荒れる
タイトルは「草茫々」なのに、本文は「くさ ぼうぼう」。ひらがなの方が、なんとなく「なまなましい」。草なのだけれど、草ではなく、なんとなく、私は「このくさは沢田だな」と思ってしまうのである。「ぼうぼう」と「茫々」よりもつかみどころがない。それは、より肉体に近いということである。
このままひらがなで詩がつづいていくのかな、と思うと、
●●(ふんち)や●●(きょうく)を
鎮めるように鳴いてくれるので
と、私のワープロでは変換できないむずかしい漢字が出てくる。本文にもルビがふってある。「草茫々」は、読めないことはないが、草とくれば「ぼうぼう」である。でも「ふんち」「きょうく」は、聞いたことがないので、読めない。ルビがあっても、「意味」が近づいてこない。怒りと恐れ、かなあ。私は辞書をひかない。ひいても、それはわかったことにならない。むしろ、「ふんち=怒り」「きょうく=恐れ」が間違っていたとしても、その「間違い」には、私にとっての「正しさ」がある。それは私が選んだ意味である。私が選んだものが間違っていたら、そしてそう気づいたらそのとき修正すればいいのである。他人が定義した「意味」を受け入れる必要はない。そういうことをやっていたら、自分を「修正」するという経験ができない。(これは、まあ、「ずぼら」を押し通すわるい癖でもあるのだが。)
で、このわからないものを含んだあと、もう一度、ひらがなの、わかりきったことというか、多くのひとがいいそうなことが書いてあって、ページをめくって、次の見開きのページに入ったとたん、ことばの印象ががらりとかわる。
すみれ台にいたころは禁猟区の雑木林のそばを通って
自転車で保育園の迎えに行った
スモックと黄色い帽子の息子を
自転車の後ろに乗せ
跨線橋を上り
下った わたしたちは
亥(いのしし)の親子だったのだろうか
そうすると、あの「くさ ぼうぼう」は「禁猟区の雑木林」につながっているか、などと思ったりする。「記憶」が刺戟される。「思い出す」ということが刺戟される。
そして、最終連。
ある日 団地の三階に刃物研ぎが来た
二丁を渡すと
一時間後 研ぎたて抜き身の包丁を両手に握って
階段を上がってきた男に
約束の代を渡した 紙幣二枚
あれから刃物研ぎが来たことはない
わたしの後ろには
赤ん坊が無防備に這い這いしていた
くさ ぼうぼう
黒電話が鳴り続けている
この「赤ん坊」は保育園に迎えに行った息子のことだろうか。そうすると、「記憶」はどんどんさかのぼっていることになるのだが、そういう論理的な構造は別にして、突然あらわれる「刃物研ぎ」がなまなましい。
昔は、そういう人間が「くさ ぼうぼう」の「くさ」だった。つまり、そういう人間はたくさんいた。そのひとたちの影で(背後で)虫が鳴くように、ひとはうごめいていた。人間は「くさ」になったり、「虫」になったりして入り乱れていた。入り乱れていたけれど、独立して存在し、依存しながら(他人に頼りながら)、同時に「ひとり」でもあった。「くさ ぼうぼう」と「世の中」はおなじだった。危険もあるけれど、わくわくもした。すこしわるいこと(禁止されていること)もされたけれど、わるいこともした。そんなことは、みんな「くさ ぼうぼう」のなかに消えて行った。
そんなことが「脈絡」もなく、浮かんでは消える。
「黒電話」か。いまは、もう、そんなものはないぞ、というようなことを思ったりもする。それは、同時に「くさ ぼうぼう」は、もうない。「刃物研ぎ」はもういない、ということにもつながる。「いない」けれど「いる」を知っている。その「記憶」がある。それは、「肉体」をざわめかせる。肉体は「くさ ぼうぼう」の「くさ」になって「ぼうぼう」と生きていく。その記憶は、かなしく、おそろしく、どうじにほっとさせるなつかしさがある。この印象は「●●(ふんち)や●●(きょうく)」そのものではないが、どこか重なるものがあると思う。
沢田が書きたかったことは、私の「感想(誤読)」とは無関係かもしれない。
しかし、私は気にしない。
私は頻繁に「谷内は正確に読まない」「全部読んでから感想を書け」というような批判を受けるのだが、全部読んだところで「正確」に理解できるわけではない。たとえばドストエフスキーの「罪と罰」、その全部を思い出せる? 人間は(私は、といった方がいいのかもしれないが)、思い出せるところだけを思い出し、それをテキトウにつないで「わかった」つもりでいる。そういうことは、長編小説だろうと、詩だろうと、五七五の俳句だろうとおなじ。テキトウにつないで、テキトウに自分のことばをおぎなって、かってに「わかった」と思っているだけ。
で、と突然、飛躍するのだが、あるいは逆に引き返すのだがと言ってもよいが。
「草茫々」を読んで、あ、ここには沢田が生きているなあと感じる。肉体を持って生きていることが納得できる。「すみれ台」なんて、どこにあるか知らないが、そういう名前の団地はたしかにある。私の知っているあの団地が「すみれ台」であってもかまわない、と思ったりする。
詩は、そういうことをかってに思うことができれば、それでいいのだと思う。
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