杉惠美子「白いあじさい」ほか | 詩はどこにあるか

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杉惠美子「白いあじさい」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年06月30日)

 受講生の作品。

白いあじさい  杉惠美子

なんにも主張しない
なんにも求めない
ただ
静かに待っているような
白いあじさいがいい

毎年
我が家の隅にいる

この季節になると
あじさいのまわりを
きれいにそうじしたりする

しろいあじさいは
動かずに
自分のままでいる

そして
その茂みのなかにも
たしかに陽は射していて
地はやわらかに潤っている

 起承転結、プラス反歌、という感じのする詩である。「そして」からの最終連が「反歌」。
 白いあじさいに「なんにも主張しない」を読み取る。「なんにも求めない」「ただ/静かに待っている」は言い直しである。ことばを重ねることで、ことばの抱えているものが深くなる。「隅」は、それをさらに言いなおしたもの。そのあと「転」で「そうじ」が出てくる。ここで初めて作者が動く。そして、それ四連目で重なる。「白いあじさい」は杉自身の姿になる。
 ふつう、詩は、ここでおわることが多い。ここでおわっても「完成」しているのだが、杉はその先へ一歩進む。一歩飛躍する。「白いあじさい」と杉だけの世界ではなく、その外に広がる世界、太陽や地面が結びつく。
 「そして」というのは平凡な接続詞だ。「そして」がなくても、たいていのことばは「意味」が通じる。しかし、杉のつかう「そして」は少し違う。「そして」によって世界が飛躍する。その踏み台である。踏み台をしっかり踏むから、新しい次元へ確実に進むことができる。
 この「そして」のつかい方は、とても効果的で、おもしろい。



こんな時  池田清子

頭の右の後ろから
軽く小突かれたような気がした

左肩を後ろから
そーとたたかれたように感じた

気がついて良かった!

足元に差し出された足に
つっこけるところだった

このような時には
笑うしかありません

待ってもいたような
見えなくて

こんな時は

飛びましょうか

だって
やかんだって
飛んだんですから

 「このような時」「こんな時」。微妙なつかいわけである。「待ってもいたような」の「も」も非常に微妙である。「待っていたような」ではない。気がついてみれば、という気持ちが「も」に含まれていると思う。そういう小さな動きが、「このような時」が「こんな時」へかわる動きをささえている。そして、そのちいさな「も」に気づくことによって、おおきく変化する。最終連は、講座で読んだ入沢康夫の詩の「引用」である。いっしょに読んだ作品なので、それを読んだときの「思い」も受講生に共有される。こうしたことはなんでもないことのようだけれど、意外と重要である。ことばの「でどころ」が共有されて、ことばの「領域」が広がっていく。その「領域」の広がり方は、ひとそれぞれで違うだろうが、そうした違いがあるからこそ、楽しくなる。何が共有され、何が共有されないか、ということは、いっしょに暮らしている家族であってもわからないことがある。それでも、何かがつながっていく。
 こうした明るい感じの転調、エンディングは、池田の個性である。



感嘆  緒加たよこ

ほこりははらふ
かんたんだ
ほこりはけがれ
はらひませ
よるなさわるな
べたべた
すなと
まるまり
おれと
ほこりほこりに
請う自戒
ほこり
まるまる
ぽい
とな
それでもよりつくほこりには
はらへはらへの
清掃作業
二重も三重も
吊る吊るの
日常ですし
理由ですし
よりつくな
はらはれの

かんたんだ
ませよませよの段区切り

 「ほこりははらふ」の「はらふ」は旧仮名遣い。しかし「さわる」という動詞は「さはる」ではなく現代仮名遣いで書かれている。不統一なのだが、その統一されていないことが、不思議におもしろい。べたべた「すな」、まるまり「おれ」の命令口調とも何か響きあう。命令は命令であるけれど、「絶対命令」(服従を強いるような命令)ではない。妙に、軽い。
 そうした軽さが「ほこり」の定義にも影響している。「ほこり」は「埃」、それとも「誇り」?
 そんなことを思いながら読んだのだが、私の関心は「はらへはらへの」をどう読むか。書法が完全に統一されているならば「(埃を)払え払え」になるだろう。しかし、「さはる」と書かずに「さわる」と書いたのなら、「笑う」と書かずに「はらふ」と書いたとも思える。その場合は、「(誇りを)笑う」である。もちろん「はらふ」は「笑ふ」ではないのだが、わざと間違えて「は」にしたとも読めるからである。「(誇りを)払う」でも「意味」は成り立つが、どうせなら、もっと「混乱」した方がいい。混乱させた方がいいと思う。
 なるべく違った読み方をする方が、楽しいと思う。作者の「意図」どおりに読むことも必要だが、詩は(あるいは、どんな芸術でも)、それは作者の手を離れた瞬間から、鑑賞者のものなのだから。
 「誤解」によって広がる「理解」というものがあってもいいと私は思っている。



白鳥     青柳俊哉

かさなりあっている
 
王のわたしと磐のかげ ダイヤのような緊密さで
 
深く岩礁に条をひいて古代の海岸線がしろく
 
石の中から白鳥がとぶたつ
 
わたしは王の鳥で
 
剝離しない石のままで
 
塔の年輪のように太陽へ伸びて
 
立ち上るダイヤの高樹の頂きから
 
甚だしくひかりのうずを巻いて
 
海岸線にしろくかさなるまで 磐の王のままで
 
海を空中をめぐりつづけるとき
 
あわく白鳥が枯れながら

 「石の中から白鳥がとぶたつ」の「とぶたつ」。「飛び立つ(発つ)」がふつうの書き方だろうと思うが、「とぶ」「たつ」としたところが、動詞がぶつかりあって自己主張している感じでおもしろい。 石から白鳥が分離し、独立する感じが「とぶ/たつ」によって、ごつごつした感じで迫ってくる。「わたし(王)」「磐(石)」「白鳥」は別個の存在であり、同時に一個の存在である。それが拮抗し、分離し、独立する。しかし、そういう動きをすることで、逆に強烈に一個に還る。一行目の「かさなりあう」という動詞に還る。そうした運動のなかに「宇宙」が生まれる。緊張感に満ちた運動だ。
 最終行は削除して、「海を空中をめぐりつづけるとき」でおわってもおもしろいかもしれない。「結論(結末)」がわからず不安定と感じるかもしれないが、不安定さを読者にあずけてしまのもおもしろいと思う。
 詩が作者のものであると同時に、読者のものであるなら、読者に思い切って渡してしまう。キャッチボールをしながら、「さあ、投げ返せるかな」と問うのに似ている。そういう楽しみ方もあってもいいと思う。
 特に、「講座」のように複数の人間があつまって作品を読む場では。



さびしさの井戸の涙を汲み上げる  堤隆夫

三叉路の前に立ちすくみ、惑う
この世に不惑の道はあるのだろうか
あなたは今、何処かで密かに微笑みながら
細やかなため息をしているのだろうか
ゆっくり歩いて行く者は、遠くまで行くのだろうか

六月の空は、低すぎる
七月の海は、冷たすぎる
一度だけ旅した思い出は、永遠に醒めない浅い夢

夢の中で朽ち果てるまで、踊り続けるわたしとあなた
一途に踊り続ける、わたしとあなたは
世界のすべてを敵に回しても、踊り続ける

個人的なことは社会的なこと
わたしとあなたは虚空で震えている 
新自由主義、何が自由なもんか
もう、自己責任の井戸は、とっとと枯れてしまうがいい

詩人は言った
えらいひとになるよりも、よいにんげんになりたいな

わたしの望みは、あなたと共に
今日も、さびしさの井戸の涙を汲み上げること

 「さびしさの井戸の涙を汲み上げる」は、その結果「さびしくなくなる」「涙とわかれてしまう」を意図するのかもしれないが、一方で、そういうハッピーエンドにならなくても、その行為をすること、いっしょにできることが生きている意味であり、いっしょに行動できる(同じことを共有できる)ことが幸福であるという意味にもなるだろう。特に、現代のように強欲主義がはびこる世界では、結果ではなく、何をするか、が重要なのだ。世界がどうなるかではなく、自分が(あなたが)どういうひとに「なる」か。「なる」ことが問われてており、「なる」ためには何を「する」かが問題なのだ。
 「もう、自己責任の井戸は、とっとと枯れてしまうがいい」の「もう」ということばのなかに込められた激しい感情。「永遠に醒めない浅い夢」のなかにある「矛盾」(ふつうなら深い眠りが「永遠に醒めない」)。タイトルにも通じるが、ことばは、一方通行で読むものではなく、往復しながら、つまり「表の道」だけではなく「裏の道」もたどりながら読むものなのだろう。




 
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