マイケル・グールジャン監督「アメリカッチ」(★★★★+★★★★+★★★★+★★★★) | 詩はどこにあるか

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マイケル・グールジャン監督「アメリカッチ コウノトリと幸せな食卓」(★★★★+★★★★+★★★★+★★★★)(2025年07月04日、キノシネマ天神、スクリーン3)

監督 マイケル・グールジャン 出演 窓、マイケル・グールジャン、ホビク・ケウチケリアン 

 マイケル・グールジャンが監督、主演。つまり、好きなように映画を撮っている。そして、これがほんとうに映画でしかない。いや、語弊があるな。この映画の世界は、短編小説でも可能だ。ことばでも可能だ。しかし、ことばを排除して、むかしのチャプリンの映画みたいに「映像」を見せるが、「ことば(せりふ)」は想像させるところがすばらしい。大好き、大好き、大好き、大好き、というわけで★採点も、いつもとは違う形でつけてみた。
 アメリカのスパイと間違えられ(というより、アメリカのスパイを見つけて、スターリンのご機嫌取りをしようとする男に利用されて)、独房に閉じ込められた男が主人公だが、明かり取りの窓から見える看守(画家)の家を「覗き見」する男が描かれる。
 窓から見える「仮定」は、男にとっての「唯一の世界」である。「世界」とつながる唯一の方法が「覗き」なのである。
 看守は絵が描きたい。しかし、画材を買う金がない。妻とけんかする。あるときは、キャンバスがないのでテーブルクロスを画布にする。大好きな山の絵を描く。その山を、スパイと間違えられた男も知っている。(日本の、富士山みたいな山かもしれない。)男も、なんとかして同じ山の絵を描こうとする。男には、もちろん絵の具はない。刑務所の労働の合間に、中庭で拾った石や砂を利用して山を描き、描きながら思うように絵の具が手に入らない看守に同情したりする。
 看守は絵に夢中で貧乏なので(と、私はかってに想像する。原因はほかにあるかもしれない)、女は看守を捨てて家を出ていく。画材置き場の部屋の鍵を、あるところに隠して。その隠し場所を、男は知っている。その場所を看守に教えようと、いろいろ工夫する。そして、伝えることができる。しかし、伝えてみると……。看守は、自分の家庭が「覗かれていた」ことに気づく。窓のカーテンを閉める。覗かれないようにする。しかし、翌日には思いなおす。男にバターの差し入れをしたり、絵を描くための紙を差し入れたりする。交流がつづいていく。
 これが、ほんとうに「ことば」なし。看守と女のいさかいなど、「音」は聞こえるが「ことば」ではない。だから、男も「ことば」を想像しているのだが、見ている私も想像している。だから、その「やりとり」は、全部わかる。男と女がけんかするときの「ことば」なんて、どの世界も同じ。男と女が和解するときのことばも、どの世界も同じ。
 この映画はアルメニアの映画だから、話されていることばはアルメニア語だろう。もし、看守の家庭の対話が聞こえていたら、それは「字幕」を読んで「ことば」を理解することになるだろう。しかし、何も聞こえないから、逆に、すべての「ことば」が正確に聞こえる。「聞いた」気持ちになる。
 ひとは、どんなときでも、自分の聞きたいことばしか聞かない存在なのだから、聞こえない方が逆に、自分の声としてすべてが聞こえてしまう。そういうことを、あらためて教えてくれる。
 また別の言い方をすれば、ひとはいつでも見たいものだけを見る。見たいものは、いつでも見える。「ほんとう」のことは、ついでも聞こえるし、いつでも見える。
 ああ、いいなあ。ほんとうに「映画」だなあ、と思う。
 そして、この映画は、美しい交流だけを描いているわけではない。先に書いた「ほんとう」につながるのだが、人間はだれでも自分がいちばん大事。だから、裏切る。それは「他人」に対する裏切りであり、「自分の良心」に対する裏切りでもある。人間は、他人をだます前に、まず自分をだます。自分に嘘をつく。そういう悲しい姿もきちんと描いている。
 でも、それは江戸時代の潜伏キリシタンが「踏み絵」を踏んだように、どうすることもできないことなのだ。
 スターリンが死んで、やっと釈放された男は、「家」を手に入れる。それは、あの看守の家だ。男が行ってみると、家のなかは空っぽ。しかし、ひとつだけ、残されていたものがあった。看守が、あの日、テーブルクロスに描いた山の絵。山の絵を描いたテープルクロスが、画材棚のすみにあった。男は、それを部屋に飾る。その部屋に、やがて客がやってくる。「日常」がはじまる。
 男は、窓のカーテンをひかない。まだ、あの独房があるかどうか、それは知らない。けれど、男は独房の窓から、看守の家庭を「覗き見」して、自分の自由を守った。その記憶があるから、いつもカーテンは開けておくのだ。
 何度も何度も、うれしくて泣いてしまった。悲しいシーンでは、悲しむことができることにさえうれしくなって涙がこぼれる。
 ハンカチは、最低五枚はもって行ってください。泣いて赤くなった目が恥ずかしいと思う人はサングラスも。

 ★5個をつけなかったのは、私の「あまのじゃく」。5個つけてしまっては、おもしろさが「平凡」になってしまう。好き、好き,好き、大好き、と言えなくなってしまう。ただ、「大好き」と言いたいために、変則の採点にした。