谷川俊太郎『別れの詩集』(7)(「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、2025年05月12日発行)
「魂」というものの存在について、私は、どうしても納得がいかない。
谷川は「百歳になって」では「タマシイ」ということばをつかって、こう書き始めている。
百歳になったカラダに囚われて
タマシイはうずうずしている
そろそろカラダを脱いでしまいたいのだ
古くなった外套みたいに
「おいおい」とカラダは言う
「おれを脱いだらおまえはどうなる?」
「ふわふわどこかへ飛んで行きます」
なんだか嬉しそうにタマシイは答える
「カラダ」と「タマシイ」、肉体とタマシイ。
肉体はたしかに存在する。しかし、魂が存在するかどうか、私にはわからない。見たこともないし、触ったこともない。「魂」がときどき「大和魂」のように、個人をはなれて「集団」に共通するもののようにつかわれることへの嫌悪感が強いから、その存在に対する拒絶感から感じるのかもしれない。(ついでに書いておけば、私は「こころ」も存在するとは考えない。)
この詩は、さらに、こう展開する。
カラダはぶるぶるふるえて怒る
「生き残るのはおまえだけか?」
不思議そうにタマシイは答える
「そんなに死ぬのが嫌ですか?」
死んだら「カラダ」は消える。しかし「タマシイ」は生き残る。この考え方も、私にはなじめない。もし人間が肉体と魂で構成されていて、死んだら肉体がなくなるのは、だれもが経験として知っている。肉体は焼かれて骨が残るけれど、それはもう「肉体(カラダ)」とは呼ばれない。これは「肉体」の「論理」である。
しかし、人間が肉体と魂で構成されているということが事実なら、その事実を魂からみつめればどうなるのだろうか。肉体が死んで焼かれてしまったら、その肉体は魂にとっても存在しないことになるのか。魂がほんとうに存在するとしたら、魂が見る肉体は、肉体が見る肉体とは違った存在ではないのか。魂からは、いつまでたっても肉体は見えるのではないか、とも思える。いま生きている魂があったとして、その魂が見ている肉体が、肉体が見ている肉体とおなじ存在形式をしていると考えるのは、肉体の思い上がりではないのか、とも思うのである。
これは谷川に聞いてみたい問題だったが、その機会はなかった。
生れる前にも自分がいたら
死んだ後あとにも自分はいる
「死んだら死んだで生きていくさ」
私の好きな草野心平さんの言葉です
さて、このとき草野心平は「肉体が死んだら」という意味で言ったのか、「魂が死んだら」という意味で言ったのか。
これも、わからないね。