池井昌樹『理科系の路地まで』(14) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『理科系の路地まで』(14)(思潮社、1977年10月14日発行)

 「靴墨の記憶」には、不思議なことばの運動がある。

シェパードの やもりのような なまあったかい腹のくっつく土の底から
ひんやりした 広い廊下のようにつめたく
色々な 醸すような
果実の皮を剥く時の香りが湧き出る

 「やもり」には傍点が打ってあるのだが、「シェパードの腹」と「やもりの腹」の関係が、不思議である。犬(シェパード)の腹は、たしかに「なまあったかい」。しかし、「なまあったかい」というよりは「あったかい」。「なまあったかい」には、何か、気持ち悪さがある。私は犬好きなので、犬の「あたたかさ」を「なまあったかい」とは感じたことがない。一方「やもり」はどうか。私はやもりの腹にはさわったことがないので、わからない。「あったかい」とは想像したことがないが、「あったかい」とは違って「なまあったかい」、何か不気味なものを含んでいるあたたかさがあるかもしれない。それとも、この「やもりのような」は「腹のくっつく土」という具合にことばが接続するのか。これも、よくわからない。
 ここには、何か「学校文法」で習う「構文」とは違うものがある。「構文」を乱していくものが動いている。
 だからこそ、「なまあったかい」の直後に「ひんやりした」「つめたい」ということばがつながってくる。「やもりの腹」は「なまあったかい」ではなく、「やもりのような ひんやりした ( 広い廊下のように)つめたく」とつづくのかもしれない。
 池井のことばの運動は、「学校文法」の「構文」をゆるませ、その「ゆるみ」のなかに何かが侵入してくるのを誘う。侵入してきたものは、それこそがそこにあるもののほんとうの姿であるかのように、そこに「湧き出てくる」。
 池井が書いているのは、私が見ている「現実」ではなく、池井の肉体のなかで動いている「現実」なのである。そういう「現実」を書くためには、「学校文法」で習った「構文」を壊す必要がなる。

母は 用事に いそがしい
何の用事か
僕にはちっともわからない
えたいのしれない人びとに
こどもらは 眠りこけたまま 育てられてる
玻璃(ガラス)棒を束ねたような玄関の戸
開ければ 悲しくも荒いころろの音がする……

 「こどもら」とは池井の肉体のなかに眠っている、まだ「肉体(ことば)」にはなっていない存在だろう。それを「育てる」のは池井が知っている「母」ではない。「えたいのしれない人びと」である。その「人びと」を「詩の肉体を持った人びと」と呼ぶ時、池井のことばは、「いま」を越えて「時間」を生きることになる。

 「蚊屋の夢」。書き出しが、とてもおもしろい。

しんだかばのしたばらみたいにおもたるくたれさがるしわ

 「死んだカバの下腹」と漢字まじりで書いてしまうと、イメージがはっきりしすぎて(?)笑いだしたくなるが、ひらがなだと何のことかよくわからない。この何のことかよくわからないというのは、詩の場合、とても大事だ。よくわからない、というのは、別のことばで言えば「構文がゆるんでいる」ということである。池井は「構文」をゆるませているのである。「重く垂れ下がる」ではなく、「重たるく、垂れ下がる」。漢字で書けばそうなるのだが、それを「おもたるくたれさがる」と書くと、漢字まじりで書いた時よりも「た/る」が揺れながら重なる音が楽しくなる。それは「しんだかばのしたばらみたい」の「し/た/ば」からはじまっている。「た/だ」の変化も楽しい。
 こうした音楽は、次の行にも感じられる。

ふわりとけあげるぼくとあねのあしのうらのさやけさ

 ほんとうに「さやけさ」なのかわからないが、音の変化、音のゆらぎが楽しくて「さやけさ」を納得してしまう。