谷川俊太郎『別れの詩集』(8)(「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、2025年05月12日発行)
魂は「さようなら」にも登場する。
私の肝臓さんよ さようならだ
腎臓さん膵臓さんともお別れだ
私はこれから死ぬところだが
かたわらに誰もいないから
君らに挨拶する
長きにわたって私のために働いてくれたが
これでもう君らは自由だ
どこへなりと立ち去るがいい
君らと別れて私もすっかり身軽になる
魂だけのすっぴんだ
「私」は「魂」である。どうやら「肉体」は「私=魂」が存在するための「場」だったようだが、その「場」は個別には存在せず、どういう具合だかは知らないが連続している。
で、肉体がそういうものなら、「魂」も「肉体」ではないのだろうか。肝臓、腎臓、膵臓が切り離されることなく存在することで肉体が生きているのなら、「魂」もほかの人間を構成するものと連続しているだろう。もしかすると肝臓に魂は生きているかもしれない。あるときは腎臓に、あるときは膵臓に移動して生きているかもしれない。
心臓さんよ どきどきはらはら迷惑をかけたな
脳髄さんよ よしないことを考えさせた
目耳口にもちんちんさんにも苦労をかけた
みんなみんな悪く思うな
君らあっての私だったのだから
なかには「ちんちん」(あるいは睾丸/金玉)こそが魂と呼ぶ人もいるから、私なんかは、肉体のどの部分が魂と呼ばれてもいいと思う。どの部分でもいいなら、特にここに存在すると説明する必要もない。きょうは、どこか、そのあたりに行っているといってもいいとも思う。
ただ「肉体」を「君」と呼び、「魂」を「私」と呼ぶ「二元論」は、どうしても私を落ち着かなくさせる。
なじめない。
魂が目に見えなくても、手で触ることができないくても存在しているというのなら、肉体も目に見えないけれど、あるいは手で触ることはできないけれど存在していると言ってしまえばいいのだと思う。
私は、アテネへ行ったとき、その坂を歩いたとき、あ,ソクラテスが坂を下りてくるのを見たと思った。法隆寺へ初めて行ったとき、あ、聖徳太子が目の前を歩いていると思った。魂が存在するなら、肉体も存在する。それは「見え方」が違うだけだと思う。