池井昌樹「白かべの町」 | 詩はどこにあるか

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池井昌樹「白かべの町」(「詩人 池井昌樹の世界-谷内六郎の絵に魅かれて」)

 池井昌樹「白かべの町」も1966年の作品。

まつりのあるよなぬくい日は
とんがりお山のむこうの方の
じいちゃんの町によくにあう
小さな川が一つあり
しらかべお家はのきさきに
竹のにおいのよくにおう
すだれをつるしておりました
ふうりんの音が少しして
風車(かざぐるま)売りのおじさんが
自転車にのって走ります
雨のふらないじいちゃんの町は
まつりのある日によくにあう

 このリズム、特に書き出しの三行は、最近の池井の「リズム」にとても似ている。池井は、初期のころの池井に戻っているのかもしれない。すべては最初の作品に帰っていく、ということかもしれない。
 最初の詩集『理科系の路地まで』について書いてみようかな、という気持ちに誘われる。
 それは置いておいて。
 ここにも「におい」が出てくる。「におう」ということばといっしょに出てくる。
 これは、ことばにされて、はっとするものがある。「すだれ」はよく知っている夏の風物である。そして、それはたいてい「におい」ではなく「影」といっしょに書かれる。「影」は隠すでもある。だから、「すだれをあげて」というのは、平安の文学から、しきりに登場する。
 でも、池井は、そんなことは書かず、

竹のにおいのよくにおう

 と書く。これは、ことばの経済学から言うと、ちょっと「むだ」が多い。しかし、どうしてもそう書かずにはいられなかったのは「よく」を書きたかったからだろう。「よく」は、遠くまでにおうではないだろう。この場合は、はっきり思い出せる。いまも、そのにおいにつつまれているという意識があって、それが「よくにおう」ということばになってあらわれているのだと思う。ことばの経済学を破壊して、それでも伝えたいことがあるのだ。
 この「におい(匂い)」を、私が大好きな大岡昇平は「俘虜記」のなかで、こうつかっている。

 我々は彼が戦争中から俘虜であることを一眼で見抜いた。我々はみな俘虜ぼけがしていたが、相手が俘虜であるかないかだけは一遍でわかる。声の抑揚、頬のあたりに浮かんだ変な微笑、その他のいわば匂いでわかるのである。

 「声の抑揚」(聴覚でとらえたもの)「頬のあたりに浮かんだ変な微笑」(視覚でとらえたもの)も「匂い(嗅覚)」のなかに統合されていく。それはなんというか、根本的な「生理」を刺戟してくる。それに反応する。「いわば」というのは、いっしゅ名付けられるものの総称である。聴覚、視覚という具合に、明確に分離できないもの。嗅覚は、何か、そういうなまなましいものを持っている。
 池井は、その「嗅覚」が強い。どこか「野生」を生きているいのちを感じさせる。
 私は、若いころの池井を知っている。それは「きたない」。本庄ひろし(彼の名前を知っているひとは少ないかもしれないが、池井昌樹、秋亜綺羅と本庄は、1970年はじめころの若手詩人の三羽がらすだった)と池井と私と三人があったとき、池井が「きたないものを食いにいこう」と行って、私たちを「豚足屋」へ引きずり込んだ。豚足を手でつかんでむしゃぶり食らう姿は、野生の動物を見る気がした。私は田舎育ちだったが(田舎育ちだったからかもしれないが)、豚足というものを食べたことがなかった。そして、その店は、食べ物以上に「きたない」感じがして、私と本庄は、おそるおそる豚足をかじったものだったが、池井は「きたない」に抵抗がなく、魅力を感じている。「きたない」ものに魅力を感じ、それを消化する「肉体(胃袋)」を持っていた。
 「胃袋」と言えば。池井は、当時太っていた。そして、ラーメンを食べると、そのラーメンを食べたぶんだけ「胃袋」がふくれる、つまり腹がふくれあがるという肉体をもっていた。これも、虚弱体質の私には、かなりの驚異/脅威であった。
 脱線したが。
 「におい」は何か理性では整理整頓できない「不定形」の「きたない」ものを持っている。池井は、そういうものに「なじむ」力を持っている。これは、私のように虚弱な(私はほんとうにひっきりなしに病気、もっぱら風邪であるが、をしていた)人間には、なんとも薄気味悪い。近づきたくない。しかし、それが「におい」であるから、近づかなくても、それにつつまれてしまう。
 この感想は、今回の詩にはふさわしくないかもしれないが、「におい」ということばにつられて、そういうことを書かずにはいられないのである。

 

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