こころは存在するか(53) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 大岡昇平全集2(筑摩書房)「俘虜記」。

私は昭和初期に大人となったインテリの一人として、所謂大衆に対する嫌悪を隠そうと思わない

 この文章は、「俘虜記」の核心に触れるものではないが、これを読むと思い出すことがある。
 私が小学一年生のときのことである。担任は石田先生と言った。授業参観日、どういう具合でその話が出たのかわからないが、石田先生は、「私は遠眼鏡(望遠鏡)を持っている。それをのぞくと、みんなが家で何をしているかわかる」と言った。それから数日後の我が家。何の話か、これも忘れたが、母が「石田先生さま(昔は、「先生」に「さま」を追加して、さらなる尊敬をあらわすのが母の口癖だった)は、遠眼鏡を持っていて、だれが何をしているかいつでも見ることができると言った」と言った。父は、少し鼻で笑う感じの声を出した。母は、聞こえたのか聞こえないか、背中を丸めて小さくなりながら、まっすぐに外を見ていた。戸が開け放たれていて、外が見えた。私は小学一年生だったが、そんな望遠鏡などないことは、わかっていた。だから、父がふふんと、軽く笑ったのもわかった。私は父と同じように、どこかでふふんと笑っていたのかもしれない。
 しかし、なぜ、母がそんなことを言ったのか、こどもでもわかる嘘をまともにうけとめて、口にしたのか、それがわからない。
 母は大正の生まれであり(私は、両親が年をとってから生まれたこどもである)、たしか小学校(尋常小学校、と言った)しか出ていない。学問的なことは、何も知らない。しかし、石田先生の言った「遠眼鏡」がほんとうにあると思ったのか。そのことばを信じていたのか。あるいは、それが「嘘(方便)」とわかっていたけれど、何か言いたいことがあって、そのことばを利用したのか。石田先生のことばを繰りかえすことで、私の何かを諌めようとしたのか。
 あのとき、父がいて、母がいて、私がいた。さらに、はっきりと覚えてはいないが、近所のだれか(大人)がいたはずである。私は、そのひとに何か迷惑をかけた(してはいけないことをした)のかもしれない。そして、それを認めなかったかもしれない。
 いちばん肝心なことは思い出せないのに、母が石田先生のことばを繰りかえしたこと。私が、そのことばを嘘だと思ったこと。父も、それが「嘘(方便)」であるとわかっていること。それは、わかるのに、どうしても母の気持ちがわからない。
 ことばは「こころ」をつくる。あのとき、母は、母自身の「こころ」をつくっていたのか。それとも、私の「こころ」をつくろうとしていたのか。つまり、何事かを正そうとしていたのか。「ことば」は、そこにあるのに、それから先がわからない。
 母は、まったく本というものを読まなかった。家には、本がなかった。新聞を読んでいるのを見たこともない。私は本を読み、新聞を読み、それからニュースを聞き、多くひととも話した。しかし、いま考えても(考え直しても)、母が何を言おうとしたのか、それを言い当てることができない。納得できる「ことば」がつかめない。
 私は大岡のように「インテリ」ではないが(「インテリ」ではないからかもしれないが)、あのときの母の「ことば」が、どうしてもわからない。私の「ことば」は、母には届かない。しかし、意味もわからないまま、母の「ことば」は私に届いている。

 似たことばに「お天道様が見ている」ということばがある。母は、このことばもよくつかっていた。そのことばには、「無知」と切り捨てることのできない何か、私のたどりつけない「知性(インテリ)」が存在しているように思える。それを明確にできない限り、私はとてもつまらない人間なのだと思う。