ガラスの小さな水差のフチが欠けているのを見ていた
「話した」という動詞を引き継いで、「見ていた」という動詞が動く。
「ガラスの小さな水差のフチが欠けている」でおわると、そこに「非情」が動く。人間の「情」を超えて、ものが存在する。ものにはそれぞれの「時間(物語)」があり、それは人間とは無関係に生きているということが「現実」として噴出してくる。
この「非情」の噴出を「非情」のまま書き留めると「漢詩」になる。
「見ていた」と「私」を主語とする動詞が引き継ぐと、世界は「情(抒情)」に収斂していく。
嵯峨は、基本的に「抒情」の詩人だが、それは、こういう動詞の動かし方にあらわれている。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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