谷川俊太郎「テーブルの上のリンゴ」 | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎「テーブルの上のリンゴ」(「みらいらん」6、2020年07月5日発行)

 谷川俊太郎「テーブルの上のリンゴ」。全行引用する。

テーブルの上にリンゴが一個のっている
絵にも描けるし写真にも撮れる
言葉でそれを伝えることもできる
でもずっとそれが気になっています

テーブルの上にリンゴが一個のっている
その事実が一体どういうことなのか
私にはそれがいまだによくわからない
形も色もそして味もよく知っているし
リンゴの種類や栽培方法も本で読んだ
でもテーブルの上の一個のリンゴは
見ているとわからなくなるのです
わからないのにそれがあるのは確かで
わからないのにそれは例えようもなく美しく
それがあるのが不思議でなりません

テーブルの上にリンゴが一個のっている
そのことがわからないのがむしろ快い
わかるようにしたいとも思っていません
わかってしまうと失うものがあるに違いない

地図でしか知らない海の向こうの島の道を
どこへ行くのかおんぼろトラックが走っていく
運転しているのは化粧っ気のない若い娘
荷台にはシードルにするリンゴが満載

テーブルの上にリンゴが一個のっていた
それが果実である事実は真実でした
言葉によってそれがどこまで拡散するとしても
テーブルの上に一個のリンゴはのっている

 書きたいことがある。でも、何を書いていいかわからない。谷川の詩にならって書けば、開いた本のページに詩が一篇書かれている。全部、知っていることばだ。声に出して読むこともできるし、文字を書き写すこともできる。電話をかけて、遠い友に読んで聞かせることもできる。でも、ずっとそれが気になっている。全部知っていることばなのに、見ているとわからなくなるのです。
 全部知っていることばというだけではない。四連目。起承転結の「転」の部分だが、「地図でしか知らない海の向こうの島」という想像力を誘うことばは谷川の「定型」である。「おんぼろとラック」も「化粧っ気のない若い娘」も「定型」である。いつも行っている島、最新のスポーツカー、助手席に一個のリンゴをのせて、イタリア帰りのちょい悪おやじが車を走らせているわけではない。「見慣れた」谷川のことばが、見慣れた形で「転」をつくっている。
 「結」では「それが果実である事実は真実でした」のことばあそびが少し重い。そして、その「重さ」をひきずって「言葉によってそれがどこまで拡散するとしても」という一行は、なんとも不思議な論理性をかかえていて、最終連の四行のなかで、「転」になっている。最終連の四行が、ひとつの「連」であると同時に、一行ずつ独立して「起承転結」を演じていることを教えてくれる。
 しかし。
 それよりも何よりも奇妙なのは二連目である。
 谷川は、私の印象では、きわめて「形式性」が強い詩人である。「起承転結」を踏まえるということもその一つだが、連をつくるとき、その連の行数はそんなに変化しない。この詩の場合、二連目をのぞくと各連は四行ず構成されている。これまでの谷川の詩だったら、二連目も四行で構成しただろう。なぜ、この連だけ十行もあるのか。
 詩を書き慣れている谷川なら、これを四行に収めることができるだろう。なぜ四行にしなかったのか。
 できなかったのか。
 まさか。
 何が起きたのか。

テーブルの上にリンゴが一個のっている

 この一行は、書き出しの一行と同じである。そして三連目、五連目(最終連)の一行目と同じである。詩のリズム(論理の定型)を支えている。

その事実が一体どういうことなのか
私にはそれがいまだによくわからない

 は一連目の「不思議」と「気になっています」の言い直しである。

形も色もそして味もよく知っているし
リンゴの種類や栽培方法も本で読んだ

 これは、一連目の「絵にも描けるし写真にも撮れる/言葉でそれを伝えることもできる」の言い直しである。変奏である。
 そういう意味では、ここまでは一連目(起)を受けた「承」そのものである。ことばを変えて、すこしずらした。
 この「承」を、谷川はもう一度「承」の形で、ひとつの連のなかで展開している。二連目は「承1」「承2」という形になっている。(そしてその「境」に「本で読んだ」という「転」が踏み台のようにしてはいってきているのだが、このことを書いていると省略。)
 それが証拠に、「承2」のはじまりは

でもテーブルの上の一個のリンゴは

 と、それぞれの連の書き出しにある「テーブ(の上)」「一個」「リンゴ」を引き継いでいる。しかし、そこには「のっている」は省略されている。そのかわりに、一連目の最後の行にあった「でも」ということばが入って来ている。
 ということは。
 この行から始まる五行は、一連目の「でもずっとそれが気になっています」を言い直したものなのだ。
 「承1」は一連目の一行目から三行目まで、「承2」は一連目の最終行を受け継いで、その「変奏」を展開していることになる。
 「気になる」を、どう言い直しているのか。

見ているとわからなくなるのです

 「わからない」ではなく「わからなくなる」。「なる」という「動き」がくわわっている。「わからない」は「状態」だが、わからなく「なる」は変化である。わかっていたはずのことが、わからなく「なる」。
 「気になる」も変化かもしれない。「気になる(気にする)」は「わからない」同じように「状態」であるけれど、「気にならなかったものが、気になる」と言い直せば「なる」が明確に見えてくる。
 一連目がさらりと書かれているのでわかりにくいが、

でもずっとそれが気になっています

 は、

それが気になってきました。そして、その気になったという状態がつづいています

 ということなのだ。
 一連目の隠された「なる」を、別の形でもっとていねいに言おうとしているのが二連目なのだ。
 そして、この「なる」は二連目の最終行でもっと不思議な形に変化する。

それがあるのが不思議でなりません

 これは簡単にいいなおせば「不思議です」ということ。「なりません」は「ない」を変形させたことばであり「なる」とは直接関係がないかもしれない。つまり、「不思議でなりません」は「不思議であります」ということ。
 しかし、谷川は「ある」ではなく「なる」につながる形でことばを動かしたかったのだろう。「なる」につながる「な」という音をふくんだことばを書きたかったのだろう。

 私は詩を読むとき、詩には必ずキーワードがあると考える。言い換えのきかないことば。言い換えたいけれど、あまりにも「肉体(思想)」になりきってしまっているので、無意識に動いてしまう「必然」のようなもの。
 この詩の場合、それが「なる」である。

見ているとわからなくなるのです

 その一行のなかに、一回だけでてきた「なる」。
 そして、「変奏」される「なる」。

 「なる」は「成る」である。しかしまた「生る(ある)」でもあるだろう。ハムレットではないが、「to be or not to be」の「be」が「なる」であり「ある(生る)」であるからこそ、「生きるべきか、死ぬべきか」「なすべきか、なさざるべきか」にも変奏される。そして、そのとき「なる」は「なす(為す)」であり「生す(なす)」であり、この「なす(為す)」は「する」ということ、「動詞の主体となること」、読み直すと、最終連の、この一行がくっきりと見えてくる。

言葉によってそれがどこまで拡散するとしても

 「拡散する」に「する」が隠れている。そしてそれは「なる」であり、「生まれる」なのだ。ことばを拡散していくとき、そのことばといっしょに、谷川の考えていたことが「生まれる」のだ。
 谷川は、ことばといっしょに何かを「生み出している」のだ。「生む」ということが、谷川にとって詩を書くことなのだ。

 この詩を、私は特別すぐれている作品とは思わない。形が不細工だし、読んだ瞬間に、その不細工さにつまずいてしまう。
 けれど、形の不細工さだけにつまずいたのか、ということを見つめなおすと違うものが見えてくる。そういう不思議さがあり、不思議さにつきあってみると、谷川にとってことばとはなにか、という思想(肉体)のようなものが見えてくる。
 奇妙ないい方になるが、とても「貴重な」一篇である。



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