ウッディ・アレン監督「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(★★★+★)
監督 ウッディ・アレン 出演 エル・ファニング、ティモシー・シャラメ
最近のウッディ・アレンは弱い光のなかで、輝いたり陰ったりする「人肌(女性の肌)」の変化に執着している。この映画でも、最初からそういうシーンで始まる。大学のキャンパスでエル・ファニングとティモシー・シャラメが話をする。夕方の色づいた光がエル・ファニングを染め上げる。金髪がやわらかに輝き、ほほが朱色(黄金?)にそまる。エル・ファニングが美しいのか、夕暮れの光が美しいのか、判断に迷う。そして、迷っている瞬間、私は、私がウッディ・アレンになっていると感じる。
言い直すと。
もしエル・ファニングが魅力的に見えたとしても、それは彼女自身の力によるものではない。ウディ・アレンの演出、特に光の演出によって、この世を超えた存在になっているのである、とウディ・アレンは言っているのだ。
ここではウディ・アレンは「自己分裂」していることになる。
ふつうはミューズに出会い、ミューズに引かれて、さまざまな活動が始まる。しかし、ウディ・アレンの場合、それは「女性」であるだけではだめなのだ。その「女性」をウディ・アレンが求める光のなかに存在させることで、彼女はミューズに生まれ変わるのだ。ミューズがウディ・アレンを育てるのではなく、女性をミューズに生まれ変わらせることで、ウディ・アレンの創作欲は動き始めるのだ。
ミューズによってウディ・アレンは生きているということを装い、ウディ・アレンは次々にミューズを取り換えていく。ウディ・アレンにとってミューズは突然やってくるのではなく、ウディ・アレンの「創作」でもある。同じミューズを使っていたら「自己模倣」になる。「自己模倣」を乗り越えるためには、次々にミューズを「更新」しなければならない。
そういうことが、非常によくわかる映画である。ダイアン・キートンからはじまり、エル・ファニングにたどりつくまでの「女性の変遷」を見ていると、とくにそう感じる。
ウディ・アレンの「好み」は「成熟」というよりは、「未成熟=未完成」である。「ブルー・ジャスミン」のケイト・ブランシェットさえ、「未完成」を生きている。「わがまま」を貫いている。(ダイアン・キートンは、唯一、未成熟とは無縁の女性に見えるが、未成熟を感じさせないことがウディ・アレンには耐えられず破綻したのかもしれないし、そこで破綻したからこそウディ・アレンの女性遍歴=ミューズ探し、ミューズづくりがはじまったかのもしれない。ウディ・アレンには「未熟、未成熟」と「純粋」のあいだには大きな違いがあるということが明確に認識されていないのかもしれない。「未成熟」なら「純粋」と思い込んでいる感じがある。)
ということを書いてもしようがないが。
私は、エル・ファニングが生理的に嫌いである。
こう書き始めた方がよかったかもしれない。
なにが嫌いか。「童顔」が嫌いである。「童顔」は「未成熟」とは違い「未熟」である。まだ「成熟」に手がかかっていない。
でも、これは考えようによっては、「成」の気配さえないのだから、どんなふうにでも育てられる。変化させることができるということかもしれない。それは、逆に言えば、手を着けたいけれど、どこから手をつけていいかわからないということでもある。
この映画のなかでは、恋人のティモシー・シャラメのほかに三人の「成熟」した男が出てくる。彼らは、ティモシー・シャラメに対して、どうしていいか、さっぱりわからない。したいことが「ある」のだけれど、それを具体化できない。ディエゴ・ルナは自宅に誘い込むが、スカーレット・ヨハンセンが帰って来て、したいことができない。自分の「未熟」をさらけだしてしまう。
ウディ・アレン(ティモシー・シャラメ)も、結局、何もできない。
自分のしたいことをエル・ファニングに明確に伝えるが、エル・ファニングは目の前にあらわれる「魅力」に右往左往して、エル・ファニングを「支えている」ティモシー・シャラメを、ほんとうに「つっかえ棒」のように利用しているだけである。そして、その自覚もない。
ここには、どうすこともできない「分裂」がある。
そして、この分裂は、最初に書いた「ウディ・アレンの自己分裂」に、そのまま重なる。
ティモシー・シャラメはエル・ファニングに魅力を感じるが、それはティモシー・シャラメの求めている「陰影」を背負ったときのティモシー・シャラメなのだ。セントラル・パークの馬車のなかで、ティモシー・シャラメは「街路の騒音と、部屋の中の沈黙」というようなことを言う。だれのことばだろうか。私は知らない。それに対して、その出典を「シェイクスピアね」とエル・ファニングが言う。このとき、ティモシー・シャラメは、エル・ファニングに「陰影」を与えることは絶対に無理だと悟る。エル・ファニングは「陰影」を生きる人間ではないのだ。
「陰影」好みなんて、スノッブだ。全体的な美は「無垢」にある。でも、「無垢」のままは嫌い。「陰影」を与えたい(自分の好みにしたい)、というのは「かなわぬ恋」である。
この映画は、エル・ファニングとティモシー・シャラメを描いているが、ふたりがいっしょに行動するシーンは非常に少ない。「恋」は、「ミューズはほんとうにいるのか」というストーリーのための「枠組み」に過ぎない。そのことも、「かなわぬ恋」を雄弁に語っている。
ウディ・アレンの映画を見ると、私はたいてい登場人物が大好きになるが、この映画ではかろうじてジュード・ロウが年をとっていい男になったなあと感じたくらいで、ほかの登場人物(役者)には「共感」というものを感じなかった。「凡作」だと思った。しかし、ウディ・アレンとミューズとの関係がとてもよくわかった気がしたので★をひとつ追加した。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン3、2020年07月12日)
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