沖縄県議選を、どう「読む」か。 | 詩はどこにあるか

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沖縄県議選を、どう「読む」か。
       自民党憲法改正草案を読む/番外361(情報の読み方)

 沖縄県議選(定数48)が開票された。2020年06月08日の読売新聞(西部版・14版)の一面。

沖縄県議選/知事派 過半数維持/「辺野古」国と対峙継続へ

 これが今回の選挙結果の「要約」である。
 知事派25議席、反知事派21議席、中立2議席。(告示前は知事派26議席、反知事派14議席、中立6議席、欠員2)。
 これを受けて26面に関連記事と解説が載っている。

知事「何とか過半数」/翁長元知事次男が初当選

 一面の見出しになっていた焦点の「辺野古」については、知事はこう語っている。

 「辺野古反対の訴えはしっかり伝わっていると思う」と強調した。

 今回の選挙のポイントは何よりも「辺野古」。しかし、その焦点のポイントをずらす形で見出しがとられている。見出しに間違いがあるというのではないが、焦点ずらしがおこなわれている。
 翁長元知事次男は「父が残した『オール沖縄』の立場で、玉城県政をしっかり支える」と語っている。つまり「辺野古反対」の姿勢を支持すると語っている。
 「翁長元知事次男が初当選」という見出しの「意味」は、「辺野古反対」に対する強力な支援ということになるが、「辺野古」のことばがないので、見出しを読んだだけでそれがどれだけ伝わるかは判然としない。つまり、間接的に「辺野古」を隠すことになっている。
 これを受けての解説の見出しは、

知事派 磐石とは言えず

 「磐石」が何を意味するかは定義がむずかしい。しかし、「中立派」を加えなくても「過半数」なのだから「脆弱」とは言えない。
 問題は。
 「辺野古 国と対峙継続へ」→「何とか過半数」→「磐石とは言えず」
 という、見出しの「構成」である。このままつづけて読むと、「辺野古反対」という県議会の意思は、いまは「過半数」だけれど、「磐石」なものではなく、やがて国の方針にあわせて変わることが考えられる、と読める。
 選挙直後なのに、県民の意思を読み取るのではなく、県民の意思を誘導しようとしている。国の方針にしたがって辺野古基地を完成させる。そして国からの経済支援で沖縄経済を立て直すのがいい、と誘導している。
 自民党県幹部から、こんなことばを聞き出している。

 「コロナで県の経済が打撃を受けている(略)。2年後の知事選を見据え、中央とのパイプがある自民党にしか経済の立て直しができないと訴えていく」

 ここには「辺野古」のことばはない。
 そして、「解説(沖縄支局長 寺垣はるか)」は、こう結んでいる。

 沖縄は2年後に本土復帰50年の節目を迎える。基地問題について知事はこれまでのように政府と対立するだけでなく、現実を見据えながら負担軽減につなげていくべきである。

 「現実」って何? 何の現実? ここには、自民党県幹部が言った「経済」ということばが隠されている。

沖縄県民が基地の負担に苦しんでいるという現実を見据えながら

 ではなく、

沖縄県への経済的支援がないために、沖縄県経済が停滞しているという現実を見据えながら

 というのが、寺内が引き継いでいる「文脈(論理)」である。そして、こうやって「ことば」を補ってみるとわかるのだが、寺内の論理は論理になっていない。
 もう一度、「ことば」を補いなおしてみる。

①「沖縄県への経済的支援がないために、沖縄県経済が停滞しているという」現実を見据えながら、②「米軍基地が沖縄の負担になっている、その」負担軽減につなげていくべきである。(③基地を受け入れることで、国の経済支援を引き出すべきである。)

 ①では経済的停滞という「経済」の現実がテーマ、②では基地が沖縄に集中しているという「防衛(?)」がテーマ。別個のものが、同じものであるかのように結びつけられている。③を補うと、寺垣の主張が、自民党県幹部のことばに重なる。
 しかし、沖縄経済を活性化するために国の支援が必要ならば、それを要求すればいい。経済支援を要求するなら基地を受け入れろというのは違うだろう。経済と防衛は別問題である。
 多くの自治体が国の経済的支援(経済政策)を頼りにしている。しかし、そのかわりに基地を受け入れているというのは、具体的には、どの自治体があるのか。そう考えれば①②は別個の問題であるとわかる。
 それなのに、寺垣は、ことばを省略することで「論理」をねじまげ、世論を誘導しようとしている。「結論」も、あえて書かずに「暗示」することで、逃げている。明確に書けば、沖縄県民から批判がくるだろう。

 「論理」というのは、いつでも「みせかけ」にすぎない。どうとでも書けるものなのだ。
 たとえば、私なら、寺垣の書いた最後の文章をこう書く。

 沖縄は2年後に本土復帰50年の節目を迎える。県議選で「辺野古反対」という県民の意志が明確に示されたのだから、基地(辺野古)問題について政権(安倍)はこれまでのように沖縄県民の意思を無視し、沖縄県民(沖縄知事)と対立するだけでなく、沖縄にとって基地があらゆる面で重圧になっているという現実を見据えながら、基地負担軽減につなげていくべきである。基地負担が経れば、経済活動も新しい局面を展開できるだろう。基地のない沖縄の経済活性のためにも、国(安倍政権)は沖縄県民に寄り添い、積極的な支援をすべきだろう。

 あえて、ごちゃごちゃと長く書いたが、こう書けば「経済」と「基地」の関係が明確になるだろう。沖縄県民が求めているものが明確になるだろう。
 新聞(ニュース)は「客観的」事実を伝えるもの、であるはずだが、どんな「ことば」も「客観的」ではありえない。いつでも「主観的」だ。報道されていることはいつでも「主観的」事実にすぎない。書かれていることばから「主観」を排除し、自分のことばで語りなおしてみることが、いま、必要だと思う。
 もちろん私の「ことば」も「主観的」である。
 実際に「取材」しているわけでもないし、ニュースからつかみとれる「事実」はかぎられており、それを私は「主観的」に組み立てなおしているだけなのだが。
 「主観」は「間違える」。だが、「主観」は、だれかの「ことば」にはだまされない。私は、「だまされた」といいなくないので、自分のことばで言い直してみる。私は無知だから「間違える」ことには慣れている。批判にも慣れている。だが、私は「だまされたくない」。だから、読み直すのだ。このニュースはほんとうのことを伝えているのだろうか、と。









#検察庁法改正に反対 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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