嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(55) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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* (その船が川上へさかのぼっていくとき)

きみは時刻をつげる鐘の音を遠くにきいた
たったひとりになったきみが触れることのできるのはその音だけである

 「触れる」。このことばが誘い出すのは、「肉体」である。ひとりになる前は、だれかがいた。そのだれかに触れることができる。しかし、いまは触れることができない。
 そのかわりに「音」に触れる。このとき「触れる」は比喩である。
 「触れる」は、そして「接触」である。接するである。比喩としての「触れる」という動詞は、「遠く」にある「音」に触れる。「遠くから聞こえてくる」音に触れる。
 そうではなく、「触れる」は遠くまで音に触れに行くのだ。

 そうであるなら、いま、嵯峨はそういう遠くまで触れに行くという行為に、いまはそこにいないだれかに触れるという行為を重ねていることになる。







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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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