嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(56) | 詩はどこにあるか

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* (あの大きな貝殻を背負っていなければ)

蝸牛は真実をみんなしゃべるだろう
少しひかっている手足をだして

 とても不思議だ。
 「少しひかっている手足をだして」ということばが、「真実」に「怒り」がこもっているように感じさせる。「怒り」のために、全身が光っている。ことばが、同じように光っている。
 こう感じるのは、私がいまの状況に対して怒っているからかもしれない。
 隠されている「真実」がある。それを告発することばは、必ず光り輝く。そして、それは多くの人の怒りを吸収し、反射し、爆発して、光そのものになる。
 「少しひかっている手足をだして」はほんとうは、それにつづく行を修飾することばなのだけれど、その行を切り離すと「蝸牛は真実をみんなしゃべるだろう」を修飾することになる。
 こういう「誤読」をするのが、私は好きだ。「意味」ではなく、ことばそのものが勝手に動くときが。







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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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