もしその哄いが時の愚かなまちがいなら
ふた足み足ぼくは余分に歩けるはずだ
「時」は何を指しているのだろうか。「時」に人格を与え、「時」が間違えたということなのか、それとも「ぼく」の「その瞬間」という意味か。
「時」というのはだれにも属さない「客観的」なものだから、間違えるということはない。間違えたのは、「その時のぼく」ととらえるのが普通かもしれない。このとき「時」は「主観的な時(時間)」ということなる。
けれど、私は「客観的な時」、存在として「絶対的な時」そのものが間違え、「ぼく」に反映してきていると読みたい。
理由はない。単なる私の欲望である。
そう読んだから、意味がどうかわかるのか、ということは考えない。「結論(意味)」は保留して「時」(絶対)そのものが「間違える」ということを想像したいのである。
そのとき「ふた足み足」の「肉体(足)」そのものが生まれ変わる。「ぼく」が「足」なになる。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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