多和田葉子「国分寺駅三番線午前六時二十四分」 | 詩はどこにあるか

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多和田葉子「国分寺駅三番線午前六時二十四分」( 「現代詩手帖」2020年04月号)

 多和田葉子「国分寺駅三番線午前六時二十四分」の書き出し。

靴先がはみだしている
DO OR が閉まりますので ご注意ください
乗り損ねるな ノアの方舟
閉まったら はさまれてしまうに違いない
はみだしている 靴の先
毎朝少しずつ 短くなっていく

 「靴先がはみだしている」から「毎朝少しずつ 短くなっていく」までの「毎朝」の変化。
 何が起きているのか。
 「DO OR」という表記は、Oが重なるとき、ドアが閉まるという感じなのか。接触を通り越して、まるで鋏かなにかのよう。
 そう思っていると、

つめてください 指先を 今日のその先の時間を
鉄の障子がスローモーションで閉まる
靴先たちはじわじわと
内部に後退していった

 「つめる」は「奥につめる」というよりも、やくざ映画の「指をつめる」に似ている。このあと「指切り」ということばが出てくるのも、その影響(?)だろうなあ、と思うが、私は「指をつめる」ということをしたことがないので、自分自身の「肉体感覚」としてははっきりとはつかみきれない。「想像」として、そう思うだけである。
 満員電車というもの、私は、人の吐く息の濃密さについていけないので、習慣的に体験したことがない。つまり、自分の「肉体感覚」では、あまり思い出せない。思い出したくないので、記憶から消しているのかもしれない。
 でも、なんとなく「満員電車」という感じはわかる。わかるけれど、どきりとはしない。
 ところが。

あの靴 この靴が 狭い箱の中で
三時の方向 九時の方向に 居場所を探す
人を踏み台にすることもあるだろう
すみません、とまなざしを交わし合うには
近過ぎる眼球と眼球

 私は、ここではっとする。「眼球」ということばに。「近過ぎる目と目」ならたぶん、はっ、とはしなかった。「目」には何かを見るという「仕事」がついてまわる。「見る」という動詞がついてまわる。しかし「眼球」には普通は「動詞」がない。
 私は定期的に眼科で眼底検査をしているが、そのときでも「眼球」とはいわない。右見て、下見て、こんどは左下とか先生がいうときは、「目で、右の方を見て」ということであって、見るという動詞に眼球の動きがついていくだけであって、眼球を動かして右を見ると意識することはない。「眼球」には動詞はついてまわらないのだ。
 では、「眼球」とは何なのか。
 意識を気にしない(?)肉体そのものなのだ。よほどのことがない限り「眼球を動かす」とはいわない。意識して動かすものではない、意識をはねつけるような「なまなましい」ものがある。たとえて言えば、心臓だとか、胃だとか、膵臓だとか。意識ではなく「本能」が支配している感じ。
 で、

近過ぎる眼球と眼球

 ということばを読んだとき、私は「裸」を思ったのである。「裸」と「裸」が電車のなかで接触している。まるで「濃厚接触」である。逃げきれない「接触」。現実には触れていないのに、現実を越えて触れるどころか、相手の肉体に侵入していく感じ。

 これは、すごいなあ。

 そして、このとき思うのだが、この「眼球」ということばを選択させたのは何なのか。もちろん多和田の意識なのだが、私は、同時に「ことばそのものの意識/ことばの肉体」が動いているのだと感じる。
 私はよく「ことばの肉体」という表現をつかう。そして、何度か、ほかの人か「ことばの肉体って、何?」と聞かれたことがある。それは、ちょっと説明しにくいのだが、多和田がつかっている、この「眼球」のようなことば。それを誘い出す何か、ことばの「本能/欲望」のようなもの。
 「眼球」は単独で見ると「肉体の一部」をあらわすだけのことばなのだが、それがことばとしてあらわれてくる前に、「靴の先をつめる/指先をつめる」ということばの運動がある。その「つめる」という動詞が引き起こす「肉体の直接性」(指をつめたら痛い、血が出る)のようなものが、ことば自身の作用として「目」ではなく「眼球」を選びとらせるのだと思う。
 あることばがこう動いたら、そのことばのつづきとして、別のことばはこう動くのだという「肉体の連続性」がある。人間が走るとき、右足を先に出して、爪先に重心を移しながら、その移動の力をかりて左足を前に出すという動きのように、不思議な連続性があるのだ。私は、そういうものを感じる。そして、そういう「ことばの肉体の連続性(運動の正確さ)」みたいなものを感じるとき、なんだかどきどき、わくわくする。






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