新型コロナウィルスについては様々な意見がある。医療現場でも意見が異なっている。大別して、
①検査を多く実施して早く感染者を見つけ隔離治療する。
②検査の精度は高くない。医療崩壊を招く多数の検査は避けて、医師が必要と判断したひとだけを検査する。
いま、治療を受けていないひとは①②のどちらをも主張できる。
しかし、もしいま治療を受けているなら、問題は少し複雑になる。
主治医が①を主張していたとき、患者は②を主張できるか。
主治医が②を主張していたとき、患者は①を主張できるか。
もちろん「意見」はそれぞれ自由である。どんな「意見」をいうこともできる、
はずである。
ところが現実に即して言うと、これは簡単ではない。
主治医が①を主張しているとき、あえて②を主張する患者がいるだろうか。
主治医が②を主張しているとき、あえて①を主張する患者がいるだろうか。
つまり、主治医と違った意見を主張する患者がいるだろうか。
きっといない。
反対の意見を言ったとき、その後も親身に治療を受けられるかどうかを患者は心配する。
患者というのは主治医に命を預けている。
いわば命を握られている。
どうしたって主治医の言うことに従うのである。
ここからどういう問題が起きるか。
①を主張する主治医のもとでは、患者は①を言う。
②を主張する主治医のもとでは、患者は②を言う。
言い換えると、主治医は反対意見に直面する機会が少ないのである。生の声として、反対意見を聞く機会が少ないのである。
患者はみんな「先生のおっしゃる通りです」という。
(批判するとしたら、患者が死んだとき、その遺族が批判するくらいである。)
「先生」は批判には慣れていない。
「先生」にはいつも一定数の支持者がいる。
だから「先生」は自説を変えることなく、絶対的に正しいと主張することができる。
その結果、実際的な「対話」(社会的調整)というものができにくくなる。
これは、いまの日本の新型コロナウィルスのいちばんの問題点だと思う。
私はあるひとと「対話」した。そのひとが「医師」とは知らず、批判した。すると、とたんに「患者さん」から「〇〇先生は立派な医者です。先生の意見が正しいです」という批判が返ってきた。もちろんそれはそれでいいことなのだが(医師が信頼されているのはいいことだが)、患者が医師を意見を支持しているからといって、その意見が絶対的であるという「証明」にはならない、ということを考えてみなければならない。
私は私の意見が正しいというのではない。
自分の考えを支持してくれるひとがまわりにいるからというだけで、自分の考えが絶対的だと考えるのは危険だといいたい。
特に、まだ不明なことが多いものについては、常にいろいろな意見の「妥当性」を考えてみないといけないのではないか。
いま書いた医療の問題を、安倍に結びつけて考え直すと、ほかのことも見えてくる。
安倍の周囲の人間(お友達とお友達未満を含む)は、安倍の言う通りにする。そうすると自分に「利益」が帰ってくるからである。
患者が主治医を批判しないのと同じである。
批判すれば、自分の「利益」の保障がないと考えるからである。
「先生」と呼ばれる人間は、たいてい、そういう「利害関係」を生きている。「先生」のまわりには、「先生」を批判するひとはいない。
学校も似ているだろう。
「先生」を批判する生徒は少ない。出題された問題を批判することはできない。問題にあわせた「答え」以外は許されない。これは、ある意味では仕方がないことだが、それがつづけられると、「先生の期待する答え」にあわせて思考し始めるということが起きる。教育のいちばんの仕事は「批判力」(自分で考える)を育てることだが、逆に「順応力」(他人にあわせる)だけを育てることになってしまう。
日本では「先生」ということばが、あまりにも振って歩きすぎているかもしれない。