テレンス・マリック監督「名もなき生涯」(★★) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

テレンス・マリック監督「名もなき生涯」(★★)

監督 テレンス・マリック 出演 アウグスト・ディール、バレリー・パフナー

 テレンス・マリックの映像は美しいと評判である。この映画も確かに美しい。しかし、困ったことにその美しさは、私の「頭」が感じる美しさであって、「本能」というか「欲望」が感じる美しさではない。簡単に言い直すと、この映像の真似してみたい(絵に描いてみたい、ことばに置き換えてみたい)という欲望が起きない。その場所へ行ってみたいとも思わない。さらに言い換えると、この映像を「美しく」撮っているひとの気持ちがわからない。こんな美しい映像を撮る人に会ってみたいという気持ちにはぜんぜんなれないのだ。
 なぜなんだろう。
 今回の映画には、その「わからなさ」へ近づくための手がかりのようなものがあった。主人公が兵役を拒否した。それでも召集令状(?)は届く。そして主人公へ出征する。ひとりになった女が「あなたに私がみえるの?」と語るシーンがある。主人公も独房で「あなた」と呼びかける。そのあと「父」とも呼びかける。ここで、はじめて私は「あなた」がだれだかわかった。「神」なのだ。
 おそろしいことに。(というと、たぶん叱られるかもしれないが。)
 私の席の隣(新型コロナウィルスを警戒してなのか、たいていひとつ空席をおいて座っているので、ほんとうは二つとなりの席)の女性が、主人公が「神」に語りかけることばを、英語そのままで反復していた。それで、ますます、主人公やその妻が語りかけている相手が「神」なのだと確信した。
 で、こう思ったのである。
 テレンス・マリックが描き出しているのは人間の視線で見た「情景」ではなく、「神」が見た「世界」なのだ。テレンス・マリックが、「神」が見ている世界と想定した世界という方が正確なのだろうけれど、いずれにしろ「人間」が見た「世界」ではないのだ。
 これでは、私が共感できるわけがない。私は「神」を信じていない。「神」を信じていないのに、「神が見た世界」を見せつけられても、これは確かに美しい映像だけれど、それがどうした?としか言いようがない。
 しかも、である。
 この映画は、一方で兵役を拒否する(ヒトラーに従うことを拒否する)主人公が、「村八分」にされることを描いている。とても人間臭いのである。一方で、孤独な「神」への誓いのようなものがあり、他方で「神聖」とはほど遠い俗な人間関係がある。なまなましい「人間ドラマ」(人間動詞の葛藤)がある。それなのに、その「人間ドラマ」は、「神」の視線でとらえられているためか、「情念」のようなものがつたわってこない。怒りや憎しみが感じられない。「試練」のように描かれるのである。
 これがまたまた、私には、ぴんと来ない。「試練」を描いていることはわかるが、「試練」にしてしまうと、「人間ドラマ」が「人間対人間」ではなく、「人間対信念(?)」のようなものにすりかわってしまい、まるで「倫理の教科書」みたいと感じるのである。私は、こういうのは苦手だ。
 「神」のかわりに、村で暮らす女の方には、小麦粉の量をそっと増やしてくれる水車小屋の男がいたり、こわれた台引き車のまわりにちらばったじゃがいもを集めてくれる女がいたりする。一方で、女は、彼女より貧しい老婆にとれたばかりの蕪をわけたりするという、「人に隠れておこなう善行」のようなものが描かれる。主人公の方は、冷酷に「死」と向き合いながら、それでも思っていることを貫く姿が描かれる。
 その「試練」がふたりをどう育てたのか。
 私にはわからないが、そういう「試練」を生きる人がいて、いまの世界が支えられているというような「メッセージ」を監督はつたえようとしているようだが、それが「神の見ている世界」なら、いやだなあ。キリスト教徒ではなくてよかったなあ、と私などは思ってしまう。「信念」を生きる姿は立派だが、そういう人がいるから「いまの世界がある」と言われて、それでキリスト教徒は納得するのだろうか。次代のひとのために信念を生きる「名もなき生涯」を選び取るのだろうか。「信念を生きることで、社会がどうかわるのか」と、「神」ではなく、生きている人間から問われつづけるという、それこそ「この世の試練」ともいうべきものが何度も描かれるのを見ると、「偉いなあ」と思わず声が漏れる。
 でも、これが「道徳の教科書」になってもらっては困るなあ、と私は思ってしまう。
 ヒトラーのどこに問題があったかを、もっと描いてもらいたい。テーマが違うといわれれば、そうなのだけれど。

(中州大洋スクリーン2、2020年02月24日)