嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(37) | 詩はどこにあるか

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* (どこまでも時の端を求めて歩いていつた)

気がついたら
そこはぼくの心のゆきどまりだつた

 「時の端」は「時のゆきどまり」だろう。それから先がないのが「端」なのだから。そうすると、「心」は「時」ということになる。ただその「心」には「ぼくの」という限定がついている。ここから引き返して、「時の端」を「ぼくの時の端」と読み直してみる。客観的な、あるいは一般的な「時」ではなく「ぼくの」時の端を求めている。しかし、「ぼくの時の端」では、自己主張が強引すぎる。「時」に「ぼくの」という限定をすることは、ふつうはしない。「ぼくの心」という言い方は一般的である。この違いを、嵯峨は、巧みに利用している。
 「気がついたら/そこは心のゆきどまりだつた」であったとしても、大筋で「意味」は変わらないのだが、「ぼくの」という限定をつけずにはいられない瞬間が、ある。同様に「ぼくの」という限定をつけたい「時(の端)」があるのだということを嵯峨は静かに語っている。




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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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