嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(30) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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ここは何処なのか

遠いことはいいことだ
愛が 憎しみが 心だつて
なにもかもが遠くなる

 「ここが何処なのか」わからないを「遠い」と言い直している。ただ「遠い」のではなく「遠いこと」。「遠いところ」ではなく「遠いこと」。
 「どこかわからない場所」にも「わかるもの」はある。道とか家とか、あるいは扉、窓。しかし、それぞれの「もの」が抱え込んでいる「歴史(それまでに起きたこと)」がわからない。これが「遠いこと」なのだ。
 そのとき「わかること」というのはなんだろうか。自分自身か。しかし、これもよく考えると「わからない」。「ここは何処なのか」は、すぐに「私はだれなのか」にかわる。そして、それは「何をしているか」(何をしたか)にかわる。

ああ 在りし日にぼくは何処を彷徨つていたのか

 この最終行は「在りし日にぼくは何を彷徨っていたのか」ということになる。




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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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