嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(18) | 詩はどこにあるか

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ガスライト

泥人形が雨に打たれて崩れていると
終日
それを眺めているぼくを時の手はやさしく支えてくれる

 「時」が支えるではなく「時の手」が支える。「手」と比喩をくわえることによって「時」はどう変わっただろうか。「支える」という動詞が具体的に感じられるようになる。さらに「やさしく」ということばも非常に具体的になる。
 「泥人形」と比較すると、わかりやすい。「泥人形」は具体的であるが、「意味」になっているという点から見れば「抽象」である。いいかえると、そこにある特別の、一個だけの「泥人形」ではなく、「泥人形」と呼ばれる存在(比喩)でしかない。
 しかし「時の手」は比喩なのに「意味」を超えて身近に感じられる。「手」だ誰でもが知っている「肉体」だからである。無意識に「肉体」がことばを受け止めるのである。
 こういうことばの力は見直されるべきだと思う。







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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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