朝吹亮二『ホロウボディ』(3)(思潮社、2019年10月10日発行)
朝吹亮二『ホロウボディ』の「抒情」について書きたいと思っていたが、寄り道をしている間に、書きたかったことを忘れてしまった。まだ書きたいという思いが残っていることだけを覚えている。
きょうは「の」について書いてみる。「J・Nに」という副題がついている。西脇順三郎に、ということだろう。
の
の原初だって、の
の原
始、の
の
ひろがりをいくしがない語学教師には豊饒な最終講義はありはしないケヤキやイチョウはのびつづけているけれども私の背はのびないどころかちぢんでいる
どんどんちぢんでの
の
原初の種子
「の」そのものにもそうだが、いくつかのことばから西脇を思い出す。「原始」にも「豊饒」にも「最終講義」にも。
たぶん「抒情」とは「記憶」のひとつである。「記憶の感情」を揺さぶられるとき、「感情の記憶」がはじめてのようにして動き始める。生き始める。そのとき、まったく新しい感情であったとしても、まるでどこかで体験してきたことがあったかのように、感じる。
西脇の詩を読むと、それこそ「の」の一文字にさえ、そういうものを感じる。だれも書かなかった「の」なのに、それがそこにそのまま「存在」している。この「手触り」を、私は知っている、と「誤読」するのだ。
「最終講義」など、私はだれの「最終講義」も聞いたことがないし、私自身はそういうことをする立場に立ったこともない。だから何も知らないのに、西脇の詩を読むと「最終講義」というものが「存在する」ということが迫ってくる。そして、その「迫り方」があまりにも「現実的」なので「抒情」ということばを忘れてしまうが、朝吹の詩を媒介にして同じことばを読み直すと、あ、あれは「抒情」が精神によって(頭によって)ととのえられる前に噴出してきた「事実」としてそこに「ある」のだ、という感じがする。
のようなものとしてころがっているのか私の茎はスミレの茎ほどもかぼそく折れて千切れそうだ私の存在はかぼそい茎か安いキザミタバコかタバコをやめていくひさしいがすわないって叫んでみてもやはりゴールデンバットはすいたい両切りタバコの紙のくちびるにやさしい感触にがい煙のかたまりの抵抗感やがて煙はたゆたう煙のようなののなんにもない
「スミレ」とか「ゲールデンバット」とか。西脇のためのことばではないが、西脇を思い出すのである。
思い出しながら、西脇と朝吹はどこが違うのか、とも考える。ちょっと西脇と吉岡実との違いも考える。朝吹と吉岡の違い、とか。
西脇のことばは、一見、デタラメに見える。そしてほんとうにデタラメなのかもしれない。でも、私はそのデタラメを「事実」と感じる。世界には、あらゆるものが存在する。それは「関係」をもっているのかもしれないが、たいがいは「無関係」に、ばらばらに存在している。ばらばらなのに、ゆるぎがない。これが私の言う「デタラメ」。
吉岡の場合も、朝吹の場合も「デタラメ」とはいえない。
たとえばこの詩には、さまざまなことばが出てくるが、先に書いた「の」とか「原始」「豊饒」「最終講義」「スミレ」「ゴールデンバット」、「すいたい」という動詞さえ、西脇のことばとつながっている。ばらばらに存在するのではなく、西脇の詩の記憶とつながっていて、「頭」でととのえられて、詩として書かれている。「デタラメ」になりようがないのである。そして、「デタラメ」になりきれない分だけ弱くなっている。「頭でととのえられた」ことによってニセモノになっている。ニセモノというのは、まあ、方便であって、西脇の「ホンモノ」と比べるために、むりやりニセモノと書いているのだが……。
言い換えると、西脇のことばは「独立」している。「孤立」している。「出典」があったとしても、出典を蹴飛ばして、なかったものとして「もの」を新しく存在させている。百人一首のパロディーみたいな詩が西脇にあったが、あの百行など、百人一首の「意味」を完全に無視している。そういう「デタラメ」な強さがある。
朝吹の書いている「最終講義」も「スミレ」も「ゴールデンバット」も西脇のことばを蹴飛ばしたりはしていない。むしろ大事に抱え込んでいる。言い換えると、批評していない。そこに「弱さ」がある。「頭でととのえている」のだから「批評」であるはずなのだが、「批評」になっていない。簡単に言いなおすと、「出典」をバカにしていない。見下していない。穏当なことばで言いなおすと、朝吹と西脇を「対等」とは見ていない。「平気さ」というものがない。だから、存在への「共感」が弱くなっている。
西脇は、なんとでも「対等」に向き合っていたと思う。「学問」に対してもそうだが、田舎で生きている女に対しても「対等」をくずさない。「方言」に対しても「対等」を譲らない。その結果、そこにあるものがすべて「独立」して存在し、「独立語」になる。同時に、「共存」する。「の」という「もの」ではないことばさえ。まるで、「暴力」のようになまなましく、手のつけられないものとして、「対等な共存」を主張して、そこに存在している、と。
そういうことを思うからこそ、感じてしまうのだ。朝吹の詩はおとなしい。暴力がない。アイデンティティを「西脇を知っている」という「頭」に頼っている。この「頭」への依存が、たぶん「抒情」のひとつの姿なのだと思う。その「ととのえ方」(ととのえられ方)が非常にスムーズにおこなわれているので、気持ち良く読んでしまうが、この気持ち良く読めるというのは、そのまま肯定するのではなく、問題点としてみつめる必要があるだろうと、私は感じている。
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