嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(15) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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* (ぼくはまた心のなかの霧にかくれてしまう)

 こころのなかではなく、「心のなかの霧」のなかに隠れてしまう。構造が二重になっている。この二重は「比喩」ということである。だから、「隠れる」は「あらわれる」(あらわす)でもある。「かくれてしまう」と書きながら、どこにいるかを知らせている。これでは隠れることにはならない。
 そういう二重構造のなかで、嵯峨は何をしているのか。

碇をおろそうと大きな船が泊つている
一羽の鳥もいない港

 「折生迫港」の風景を見ている。
 このとき、嵯峨は「大きな船」か、「いない鳥」か、「港」か。「いない鳥」である。いないのだけれど「いない」と書くとき、その瞬間だけ存在する鳥。
 詩は、その矛盾の中にある。矛盾という「二重性」のなかを飛んでいる。









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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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『誤読』販売のページ
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