ジュリアン・シュナーベル監督「永遠の門 ゴッホの見た未来」(★★★) | 詩はどこにあるか

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ジュリアン・シュナーベル監督「永遠の門 ゴッホの見た未来」(★★★)

監督 ジュリアン・シュナーベル 出演 ウィレム・デフォー

 私はカメラが演技する映画が好きではない。カメラは、どっしりとそこにある、というだけでいい。フレームの中に人が入って、人が出て行く。そういう映画が好きだ。
 この映画は、カメラが演技しつづける。
 ウィレム・デフォーは歩きつづける。その歩くスピードにあわせてカメラが移動し、揺れる。これだけなら、それはすでに「定型」になってしまっている。「演技」といえるほどのものではない。
 とても嫌なのは、カメラの中に「光」が入ってきて、映像を変色させることである。それも完全に変色するのではなく、奇妙な感じ、下四分の一、しかも左側だけという感じで微妙に変色する。焦点も甘くなる。涙で視界がぼける感じに似ている。水滴が眼鏡について、そこだけぼわーっとする感じに似ている。私は目が悪いので、最初は目がどうかなったのかと思った。三か月の定期検診を風邪のために休んだので、とても心配になった。画面が切り替わるとふつうの映像にもどるので、逆に、やっぱり目の異変?とさらに心配になったりする。
 半分以上過ぎた辺りで、やっと、これは「わざと」なのだ、と気がつくのだが、わかった後でも、落ち着かない。どうも、ゴッホが精神的に不安定になったときに「見える」風景を、そうやって描いているようなのだが、こんなやり方は私にはなじめない。
 さらに、音楽が演技しすぎる。
 映画は映像と音楽でできているから、カメラと音楽が演技すれば、もうそれでおしまい。役者は必要なくなってしまう。
 ウィレム・デフォーが、カメラの演技に負けずに演技しているし、マッツ・ミケルセンとの対話シーン(カメラが演技していない!)もいいのだが、方々で演技しまくる音楽(音を聞かせすぎる)が、「どうだ、芸術映画だろう」と主張しているようで、とてもつらい。「はい、芸術映画なのはよくわかりました」と言ってしまえばおしまいなのだ。
 私は「芸術」ではなく「人間」を見たい。

 話はかわって。

 私はゴッホの絵は「好き」とは言えない。どこがなじめないかというと、色をパレットの上でつくらずにキャンバスの上でつくっている感じがするからだ。色に堅牢さがない。それがなじめない。
 この映画では、その、私の思っていたことがそのまま「再現」されていた。
 ウィレム・デフォーのゴッホは、パレットに絵の具を絞り出すが、パレットの上で絵の具をまぜるわけではない。キャンバスに絵の具を筆で置いていく。絵の具を重ねる。キャンバスの上で絵の具と絵の具が、色と色が出会い、交渉し、変化していく。そして、その交渉がきちんとまとまるのを待つというのではなく、つまり「完成」させるのではなく、「未完成」という開かれた状態に突き放す。結果として、そこに「変化する」というスピードだけが表現されることになる。そのスピードにのって、絵を見るひとは現実を離れ、別の世界に行ってしまう。ゴッホの絵は、そういうことを目指しているのだとわかる。
 こういうことを「象徴的」に語るのが、ゴーギャンとの比較である。ウィレム・デフォーが外から帰ってくると、オスカー・アイザックのゴーギャンが女の絵を書いている。触発されてゴッホが絵を描き始める。ゴーギャンは鉛筆でデッサン(スケッチ)しているのだが、ゴッホはいきなりキャンバスに絵筆を走らせる。ゴーギャンは、ゆっくり描けと忠告するが、ゴッホはつかみとったものを追い越すように速度を上げて描きつづける。
 その前に(冒頭近く)、戸外から帰ったゴッホが長靴を脱ぎ、それを描き始めるシーンもあるが、そういう「描くシーン」はとてもいい。カメラが演技するのではなく、そこでは「絵の具」(色)が演技している。それをウィレム・デフォーがサポートしている。(助演だね。)この長靴を描くシーンは、色が色と出会い、変化し、固有の色になるまでをとらえていて、とても魅力的である。このシーンだけなら、この映画は 100点満点である。あ、あの長靴の絵がほしい、と思わず思ってしまう。
 こんなふうにゴッホの絵と精神を再現できるのだから、それだけで映画を押し進めればいいのに、と思う。過剰なカメラと音楽の演技が「映画」を壊してしまっている。

 追加。
 南フランスを「温暖」な場所ではなく、光が透明だけれど、寒々としているということをきちんと描いているのもいいなあ、と思った。オランダからフランスへと列車で動い言ったとき、光が変化し、あ、この光の変化が「印象派」なのかと思ったことを思い出した。ずいぶん昔の旅の記憶だけれど。
 私は「印象派」の作品が好きではない。好きではないけれど、そのとき「印象派」とはこういうことなのか、と納得した。そういうことも思い出した。

 もう少しつけくわえておくと。
 私はセザンヌが形を解放し、マティスが色を解放し、ピカソが形と色を再統合したと感じている。つまり、私にとってはピカソが絵画(彫刻を含めてもいいけれど)の頂点にある。
 ゴッホが大好きな人には、また、違って見えるかもしれない。
 隣の隣に座っていた女性は、途中で寝息を立てていたが、映画が終わると「久しぶりにいい映画に出会ったわ。芸術を見たわあ」と話しながら通路を歩いていた。

(2019年11月11日、t-joy 博多、シアター11)