愛敬浩一自選詩集『真昼に』(2) | 詩はどこにあるか

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愛敬浩一自選詩集『真昼に』(2)(書肆山住、2019年04月01日発行)

 愛敬浩一自選詩集『真昼に』の、きのうのつづきではなく、別のことを書いてみる。別のことを書いても、同じになるかもしれないけれど。「繭」という作品。

夜のような沈黙の底で
波の音に浮かぶ
電話ボックスが
発光している
辺りにはだれもいないのが
ここからも見える
まるでなにかの説話ででもあるかのように
やがて彼女は
細い細い糸を静かに吐き出し始める

 電話ボックスの中に女がいる。海辺、かもしれない。だれかと話している。それを見ながら「男」の妄想が始まる。「声」は「糸」になって「見える」。男の妄想は「視覚的」である。
 「沈黙の底」「説話」ということばが、「男」を感じさせる。

電話ボックスは
波の音に揺られ
ゆらり
その時
彼女が見ているものはなんだろうか
彼女の尻上がりの声
ゆらり
決して自分から切ることのない電話を
ぐるぐる自分の身体に巻きつけながら
そこで彼女は
繭をつくる

 男は自分が視覚的人間だからこそ、他人も視覚的人間だと思う。「彼女が見ているものはなんだろうか」という「妄想」を女がするとは、私には思えない。(女なら、「彼女が触っているのはなんだろうか」と「妄想」するだろうと私は考える。)
 「尻上がりの声」は、もちろん聞こえないのだが、男は「尻」ということばをつかうことで「尻」を視覚化したいのである。
 そこには「彼女が見ているもの」ではなく、男が「見たいもの」がことばとなってあらわれている。しかし、いつでも「見たいもの」は「見えないもの」である。「見えない」から「見たい」。その「見える/見えない」のせめぎ合いでは、「見えない」ことによって「見たい」が強くなるので、「見たい」を強くするためにさらに「見えない」が増えてくる。
 「ぐるぐる自分の身体に巻きつけながら」は吐き出した「糸」であり、電話のコードであり、巻きつけているのが「見える」間は、女の肉体を縛る楽しみである。しかし、それがつづくと「繭」になって見えなくなってしまう。「見えなくなる」を楽しんでいるともいえる。矛盾だが、セックスとは、常に矛盾を含んでいる。苦しくないなら快感ではない。

波は見えないが
電話ボックスが
遠く流されて行くのが
ここからも見える
ゆらり
私の視界を越える手前で

電話ボックスが
考えられないほどの発光を始めたところだ

 まるでオナニーが終わった後の、何もすることのない男の見る風景である。欲望を果たしたのだから、もう見なくてもいいのだが、まだ見てしまう。「見える」と自動詞にしてしまっているが、こういう「逃げ方」に「おっさん」になれない「少年」の匂いがあると私は感じる。
 最後は、女を「発光」させることで、男の「妄想」を消している。「光」は「妄想の闇」を「浄化」する力である。こういうところは「気取ったおじさん」。
 と書いてしまうと、きのうのつづきになってしまうか。
 だから、違うことを書く。
 この詩のどこが好きか。
 私は、ことばの「リズム」が好きである。読んでいて、むりがない。「ゆらり」ということばは意識的に独立させられているのだが、それは次のことばを飛躍させるための「踏み台」にもなっている。「その時」「今」という、どうでもいいような「区切り」も、「妄想」の切断と接続の自然な「息継ぎ」になっている。ことば全体を「文語」ではなく「口語」が貫いている。それも鍛え上げた「雄弁」(たとえば石毛拓郎節)ではなく、訓練を放棄したしずかな口語だ。
 ほんとうは「抑制する力を鍛え上げた」成果としての口語かもしれないけれど、増殖することばが現代詩であった時代を生きてきた男のことばとしては、とても静かだ。
 そういう部分が、愛敬の魅力かもしれない。
 似たような(?)作品に「一行だけ抱いてよ」がある。

花瓶
しばらくは少しの距離をおいた
眺め
手をのばすのは

でもいいし次の
瞬間
でもいいと思う思いを
くゆらす
なにげないようにそっと
背後から抱く
こじつけを
のけぞっていく 物語の
枝や葉
を支えて
走る
舐るようにゆっくりと
するするとのびてゆく
糸のように
走る

が噴く
月明りではなく
午後の光りの中
香り始める
薔薇

 手書きのリズムかもしれない。ことばを手を通して動かす。口語だけれど、会話ではこういうしゃべり方はしないから、書くことで制御された口語だといえる。「文字」でことばをととのえる(目で見ながらことばをととのえる)詩人なのだ。