谷元益男『展』 | 詩はどこにあるか

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谷元益男『展』(ふたば工房、2019年09月10日発行)

 谷元益男『展』について、私は何を書けるだろうか。
 「馬鍬」という詩がある。「馬鍬」には「まんが」というルビがあるが「うま+くわ」がつまった「方言」だと思う。古い発音が地方には残っている。「菓子」を「くわし」と言う人がいることを思い浮かべると「くわ」と「か」の関係が想像できると思う。そして、このことからもわかるように、谷元の詩には「古い」時間、古い地方の時間が描かれている。

田起こしの
土塊をなくすため
牛に牽かせた馬鍬を
一面にあてる
鍬が通ったところには泥水が溜まり
血のりのように白くひかっている

 「白くひかっている」という描写が強い。泥水の黒が光を反射すると、その反射はより白くなる。
 とても美しい春の風景である。
 とても美しいのだが、私はとても奇妙な気持ちになる。
 谷元はこの風景をどんな気持ちで書いたのか。「声」が聞こえてこない。田起こしをする人、牛といっしょに生きているのか。いまはそういう田園風景は存在しないだろうから、きっと思い出しているのだが、それを思い出すとき、どう思い出しているのか。楽しいのか、つらいのか。田の仕事は楽しいのか、つらいのか。
 「血のり」という比喩に、ひっかかるのだ。
 「血」はいのちのみなもと。田んぼのなかに生きているものが、耕されることで噴き出してくる。ふつう、「血のり」というと「死」につながるイメージがあるが、ここでは逆にいのちの復活として「血」がつかわれているのだが、私の「語感」ではちぐはぐに感じられる。
 この詩は、こうつづいてゆく。

牛は悦び後脚を跳ねるが
あの体にも血は満ちている

 「血のり」という比喩は、牛の「体にも血は満ちている」と呼応している。そしてそれは「悦び」と結びついている。つまり「生命の輝き」の象徴としてつかわれているのだが、私はどうしても落ち着かない。
 私には、「血のり」という比喩が先にあったのではなく、牛の体にも血が満ちているということばを引き出すために作為的に呼び出された比喩のように感じられる。なんとなく「むり」が感じられる。「むり」というのは「嘘」ということである。
 この「嘘」の感じは、詩全体をおおってしまう。
 すでに書いたことの繰り返しになるが、こういう風景は、いまの日本では見ることができない。どこかで、繰り返されているかもしれないが、その場合は明確な「意図」があっての田仕事というとになる。だれでもが見ることのできるものではない。なぜ、いま存在しないものを書くのか。存在しないものを書くとすれば、その「意図」はなんなのか。「声」が聞こえない。
 いや、「血のり」ということばのなかに、「声」につながるものがあるのだが、それがよくわからない。「血」によって「いのち」を表現するという「作為」の方が目立ってしまって、「いのち」の力が響いてこない。
 こういうことは「感覚」の問題であって、私とは違う意見の人もいると思うけれど。

 どうにも好きになれないのだが、それでも、いや、それだからこそなのかもしれないが、最後の連がいいなあ、と思う。

鉄の櫛は土を
やわらかくするが
おとこの自在さを奪っている
牛が感ずるのは
ほんの少し
息が遠くなるほどに
何もない田を
思う ことだ

 田んぼが耕されると、人間はだんだん歩きにくくなる。その歩きにくい歩みは、牛にも伝わる。牛は、自分のしている仕事を思い、またいっしょに働いているおとこのことも思う。そのあと、牛が、いっしょに働いている男をほっぽりだして、違うことを感じる。そう想像している部分がとても気持ちがいい。
 ここには「声」がある。
 谷元が「永遠」を思い浮かべる「声」だ。牛になって発する「声」だ。
 一連目の風景は、たぶん谷元が子どものときに見た風景だろう。しかし、最後の連で牛が見る風景は、「生きている時間」を越える。人間が初めて牛をつかって田を耕すということをはじめた古代の時間だ。牛は、そうやって生きてきた。牛は、田を耕すだけのために飼われているのではなく、やがて食べられる存在なのだが、食べられるまでの間、農耕の手伝いをしている。牛にしてみれば何のために生きているのかわからないということになるかもしれないが、そういう時間があるのだ。
 そういうことは、人間にもあるかもしれない。
 「そういうこと」とはどういうことか。それはいえない。「そういうこと」としか。それが「感じる」ということ。
 ここに不思議な「共感」がある。
 少年は直感としてそれをつかんでいる。ここには谷元が思い出している昔の風景ではなく、昔の谷元少年がそのまま生きているのだ。



 谷元益男『展』について、私は何を書けるだろうか--と私がきょうの感想を書き始めたとき、いや、きのう北岡武司の詩の感想を書いたとき、「おじさん詩」というのは「青年のまま年を取った男の詩」のことだ思い、そのつづきとして谷元のことばの特徴について書こうと思っていたのだが、一日たつと考えは変わってしまう。それで違うことを書いたのだが、少しだけきのう思ったことを思い出しながら追加しておく。
 「底」という作品。

声も届かぬ壺の内側
その底に 落ちて行く
長い日を刻んで
滴って 水のない器を抱える
棚のなかで
うごく ものは
月しか
ない

 この清潔さ。いまもある風景かもしれないが、かつて少年のときに見た風景にあわせていまをととのえなおしていくことばの運動。
 「馬鍬」も少年のときに見た風景を、大人になって、あらためてことばでととのえなおしている作品だといえる。そこには自分のことばを、清潔なまま保ちたいという欲望があるのかもしれない。谷元は「青年のまま年を取った男」というよりも、「少年」のまま年をとった男かもしれない。ボーイソプラノのままの「声」を出そうとするのだが、ときどき「大人の地声」がまざってしまう。
 純粋な声(透明な声)にだけ耳を傾けて聞き取るようにすれば、美しい詩集ということになるだろう。少年のときにみた風景を美しいことばとして残すというよりも、「少年の声を残したい」という欲望の詩集として読むべきかもしれない。

 でも、なんだか怖くないですか? 少年の声を残すために、それを取り戻そうとするというのは--という感想は余分なのだけれど、余分だとわかっていても私は書いてしまう。










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