林嗣夫『洗面器』(2) | 詩はどこにあるか

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林嗣夫『洗面器』(2)(土曜美術社出版販売、2019年06月30日発行)

 「朝」については、すでに書いたことがあるかもしれない。この詩にも「音」が登場する。


いつものように
暗い四時ごろ目が覚めて
布団の中でじっとしていたら

牛乳や 新聞配達の
バイクの音 庭を来る足音
そして去っていく

やがて外の暗闇に
何か かすかな……
響きのようなものが満ちはじめる

吹くともない風の始まりだろうか
生きものたちのささやきかもしれない
静かな律動に耳を澄ませる

夜が明けると まず気になって
近くの畑に降りてみた
目も覚める鮮やかなカボチャの花!

用意されていたいくつものつぼみが
羽化するように割れ
天に向かって開いている

遠いものの声を聴こうと
震えながら受粉を待っていた


 誰にでも聞こえる「バイクの音」「足音」。それが「去っていく」。その新しい静寂のなかに「満ちはじめる」「響き」。
 でも、それはすぐには動き出さない。
 「吹くともない風」と「ない」という否定形が動きを貯める。「満ちる」は、「内部」が「満ちる」のだ。外にあふれるのは、内部が満ちたあとなのだ。
 この書かれなかった「貯める」、内部に「満ちる」は「用意する」という動詞に変わっていく。「用意した」ものが内部に「満ちる」、内部が「満ちた」ものは内部から「割れる」。これを「開く」という。
 林の「聴覚」(聞く力)も「満ちて」、あふれる。


遠いものの声を聴こうと
震えながら受粉を待っていた


 これはカボチャの花の描写だが、林の姿そのものに見える。林はカボチャを追い越して、「遠い」声を聞き取り、ことばにする。詩が生まれる。この瞬間が、林にとっての「受粉」だ。
 林(人間)からカボチャへの変身。そして、それをことばにすることで、再び人間に帰ってくる。生まれ変わる。
 林のことばは、人間が再生する運動をしっかりとおさえて動いていく。

 詩集のタイトルになっている「洗面器」。


夏は
朝食前の涼しいときに
畑仕事を一つ済ませる
それからシャワーを浴びると
毎回のように
洗面器に浮かぶ 白い垢!

分子生物学によると
わたしたちの体は
絶えまない分解と合成のさなかにあり
組織は交替し
自分は自分からずれながら
ようやく平衡を保っている、と

危ういような うれしいような
からっぽのような
希望のような

おぬしは見るべし
朝の洗面器に漂う花筏
そこから立ち上がって よろける
一つの影を


 二連目は、いかにも「教師」らしい「論理」。
 これが三連目で、くずれる。「論理」では追えないものがあふれてくる。「ような」という直喩が繰り返される。「論理」は「ひとつ」の結論を目指すが、詩(比喩)は結論を拒んで分裂していく。
 そして「ような」という「直喩」から、「ような」を言っている暇がない「暗喩」の「花筏」へと結晶する。そのとき、「論理」を拒み続けた三連目の「直喩」が「喩」の運動だったことがわかる。「直喩」は林にとって「暗喩(絶対的な比喩)を生み出す運動」なのだ。
 このあと林は「一つの影」と自分自身を描写するが。
 この「一つ」。
 一連目の三行目に出てくる「一つ」と関係があるだろうか。ないだろうか。
 あるとも、ないとも言えないが、私は一連目の「一つ」ということばのつかい方が好きだ。「済ます」という動詞で林は「一つ」を補足しているが、「一つ」には何か「完結」したイメージがある。「完成」といっていもいい。それだけで存在する力だ。
 「畑仕事を一つ済ませる」と畑が「一つ」完成する。その「完成」のなかから、何かがはじまる。
 その「完結」「完成」と同時に、これから「はじまる」という感じが、最終行の「一つ」のなかに隠れているように私は感じる。
 「一つ」(ひとり)ではあるけれど、「遠い何か」とつながっている。

 説明というか、註釈というか、解説(?)にはならないのだが、どう語ればいいのかわからないのだが、この静かなことばに私は「古典」を感じた。
 私は「古典」ということばをつかいながら、「百人一首」を思い出している。「百人一首」の歌は、ほんとうに優れた歌かどうかわからない。和泉式部には「あらざらむ」よりももっといい歌があると思う。でも、ひとに伝わっていくのは「あらざらむ」なのだ。そういう「不思議」が「古典」にある。
 林の「洗面器」は、何か、そういう「ありきたりの強さ」を持っている。
 朝飯の前に「仕事を一つ済ませる」という「ありきたりの暮らし」。それが「ひとりの人間」を「一つのいのち」に育てる。
 林のいちばん書きたかったことばは「一つ」ではないかもしれない。でも、私は、「慣用句」のようにして書かれた「一つ」がこの詩をおさえていると思う。落ち着かせていると思う。

*

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