嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(56) | 詩はどこにあるか

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* (誰の言葉もそこへ届かない)

死はどこからでも入ることができるが入口を知るものはない

 私は「アフォリズム」になじめない。アフォリズムにならないものが詩だと思っている。
 この一行は、

死の入口を知るものはないが、誰でも死ぬことはできる(死の世界へ入ることはできる)

 と言いなおすことができるだろう。
 しかし「誰でも死ぬことはできる」は「現実」とは違う。「現実」は「誰でも死ぬ」である。「できる」「できない」の問題ではない。さらに言うと「死ぬことができない」というひとはいない。
 嵯峨の書いた「できる」と「知る」の関係は、アフォリズムのなかでのみ成立することばの運動である。
 ことばのなかでのみ成立する「世界」という点で、アフォリズムと詩は共通するものを持っているのかもしれないが、私はなじめない。





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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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