高橋睦郎『つい昨日のこと』(125) | 詩はどこにあるか

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125  ジャコメティの歩く人

 ジャコメティとギリシアは関係があるのだろうか。ジャコメティはギリシアから学んだのだろうか。


考えたあげく 表情も筋肉も殺ぎに殺ぎ 歩く人の線だけになり
ついには動きの気配だけになるだろう それが二千六百年前の
古拙と呼ばれる最初の笑み 最初の踏み出しの含んでいたもの


 「動きの気配」の「気配」を「精神」と読み直してみたい。ギリシアの彫刻には「気配」というよりも「精神」を感じる。「集中力」と言ってもいい。
 ジャコメティの彫刻はどうか。私はあまりジャコメティの彫刻を知らない。だから、いいかげんなことを書くしかないのだが、「殺ぎに殺ぎ」の果てに残るのは、やはり「精神」ではないのか。もちろん「肉体」とは違って、そんなものは「ない」と言うこともできるだろう。しかし、「肉体」をつらぬく「何か」、完全に「殺ぐ」寸前に「残っている」と感じられる(錯覚することができる)ものがあるとすれば「精神」と呼んでもいいような気がする。
 「考えたあげく(花冠が得る)」は、その出発点である。「考える」という動詞が最後まで動き、その動きが残る。
 一方、「気配」は、どうか。私は「肉体」の内部にあるものとは思わない。「肉体」の外にあるのが「気配」、「肉体」からはみ出して動いているのが「気配」と感じる。「気配」を追い掛けて「肉体」が動く。
 「精神」が内部から「肉体」を動かすのに対し、「気配」は「肉体」を外から誘っている。

 高橋は、違う、と言うだろう。
 それは、しかし、仕方のないことだ。
 書いた人と、読んだ人が「ことば」のなかで必ず一致しなければならないということもないだろう。