高橋睦郎『つい昨日のこと』(124) | 詩はどこにあるか

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124  リッツォスに

 カヴァフィス、セフェリス、リッツォスの三人のなかで、高橋にとっては、リッツォスはいちばんギリシア的ではなかった、ということだろうか。
 こう書き始めている。


払暁 十二丁の銃口を前に ズボンに覆われた股間について
「宦官の目の行く箇所」「やつらの狙う箇所」と あなたは言う
その言いかたは 少年愛が日常茶飯だった古代ギリシア風ではない


 リルケの「生殖の輝く中心」が古代ギリシア風ということか、高橋にとっては。
 よくわからないが。
 私はリッツォスの特徴は「視覚的」であると考えている。高橋の引用には「目」ということばがある。「目」で「狙う」、「目」で世界をすばやく切り取ってしまうのがリッツォスである。
 それを


二十世紀ギリシアの ふつうの女好きの男の 脂くさい口ぶり


 「口ぶり」に、つまり「音」にしてしまう。「雅語」がはいりこむ余地はない。「視覚」が「口ぶり(声)」によって立体化される。
 高橋は、このことをどう感じているのだろうか。


それにもかかわらず あなたの語る一分後の若い死者は
古代ギリシアの彫像そのもの そこがギリシアだという
ただ それだけの理由で


 ここに「彫像」がでてくる。「彫像」は「立体」である。「目」で見る。

 この詩は、「論理的展開」ではなく、別な力でことばが動いている。「それにもかかわらず」は「論理」を無視した「論理」である。それまでの「論理」を否定し、新しい方向にことばが動くことをあらわしている。
 論理の破綻、ということができる。
 それにもかかわらず、あるいは、それゆえに、なのか。
 私はこの詩が好きだ。
 ここには、私の好きなリッツォスがいる、ただ、それだけの理由で。