高橋睦郎『つい昨日のこと』(97) | 詩はどこにあるか

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97 遺跡

 ギリシア人は山づたい、海づたいにポリス、コロニアを増やしていった。それが現代極東の都市(東京)にまで飛び火した。


新宿 渋谷 新橋 上野 浅草 飛び飛びの店店
若い私は夜ごと漂流 止り木に纜を結んでは
沢山の目と 唇と 腿と 出会っては 別れた


 それから年月が経て、


目をつぶれば甦る 数かずの燃える眼差 熱ある睦言
私自身 愛のコロニアの 時経た 歪な遺跡


 「目」が「眼差」に、「唇」が「睦言」にかわっている。つまり動いている。「燃える」「熱ある」は、動詞の動きを補強している。補強というよりも、動詞の本質、エネルギーのあり方を語っている。「目」「唇」と肉体の部位は異なるのに「燃える」「熱ある」と共通のもの、「熱い」で貫かれる。
 ギリシア人がポリス、コロニアを広げていったときも、同じようにポリス、コロニアを「貫く」ものがあったはずだ。
 愛と欲望、だけか。
 「遺跡」ということばが最後に出てくる。それは「ポリス」の動きをやめてしまった「肉体」である。残っているのは、都市の若さだろうか、老いだろうか。「56 断片を頌えて」「57 断片」は、残された断片を完璧を想起させるものと書いていたが、ここに書かれている「遺跡」はどうか。高橋の「肉体」の比喩としての「遺跡」はどうか。

 「断片」になりきれていない。つまり「歪な遺跡」ということばからは、「理想」を想起させるものが浮かび上がらない。

 「燃える」「熱ある」が「動き」として一貫していることはわかるが、それが「断片」として具体化されていない。「断片/遺跡」になっていない。高橋は、高橋という「固有名詞」を隠したまま、「歴史(概念)」を書いている。
 「歴史」を超越していく固有名詞、個別の目、唇、腿がない。カヴァフィスならば、どこかに「固有」のもの、彼自身の「肉体」の跡を残す。いまも生き続けている固有を描くことで、肉体に歪みが出てくる。その歪みを読者に発見させる。歪みこそが永遠への入り口だと告げる。
 高橋は「歪な」と書くことで、「歪」を「肉体」ではなく「概念」にしてしまった。