96 二十一世紀のロレンツォ風
「ロレンツォ」は何を意味しているのだろうか。
反自然という自然も 超自然の贈りものには違いないからには
すなおに受けとって娯しむのに なんの憚ることがあろうか
「反自然」なものであるらしい。しかし、これを「超自然」と定義し直している。そしてそれを「娯しむ」という動詞で引き継いでいる。「娯しむ」というのは、どういう動詞だろうか。「憚ることがあろうか」と言いなおしているのは、「自然」の見方からすれば「憚る」べきたのしみということになる。
たのしんではいけないものがある。しかし、そういう「禁止」は意味がない。なぜなら、それは「超自然」、つまり「掟(禁止/してはならない)」をも超えたものだからである。「掟」を超えることによってはじめて手に入る何か。「掟」を超える特権を持つものだけに許される何か。
それをたのしむとき、たのしむ人は「超自然」になる。「超人間」になる。人間を「超える」のだ。
してはならない唯一のことは 折角の贈りものを突き返すこと
限りある時間に与えられたものを娯しみ尽くせと 作られた私たちだ
主語は「私」ではない。「私たち」。複数である。しかし、無数の「複数」ではない。「私と相手」。二人で「娯しむ」。ふたりだけの、いわば秘密を「娯しみ尽くす」。
「尽くす」と「超える」がひとつになる。
これは、矛盾である。「尽くす」というのはなくなるということ。なくなってしまえば「超える」ということもなくなる。
しかし、矛盾だからこそ、真実でもある。矛盾としてしか言い表せないことがある。矛盾が存在する。それこそが「超自然」ということだ。
「尽くす」は「我をなくす」ということ。「我を忘れる」ということ。そこには「我」などない。あるのはただ「たのしさ」というあまりにも人間的な何かだけがある。