高橋睦郎『つい昨日のこと』(95) | 詩はどこにあるか

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                         2018年10月11日(木曜日)

95 血の掟


神域の沖に漂着した船は 所の神の所有
氏子は座礁した船体を襲い 積荷は獲り放題
抵抗する乗組員は 容赦なく打ち殺してよし
これは原初ギリシアでも 中世日本でも 変わらぬ掟


 と始まり、最終行。


きみ自身の無意識に残存する血への渇望に 注意せよ


 「血」と「神」が結びつく。血を捧げることで、殺戮者は神になる。この関係を「掟」と呼んでいる。
 「掟」のなかには「沖」が含まれているかもしれない。「沖/手」「沖の先」。「陸」から離れている。「神」と人間が離れているように、「沖」は「陸」から離れている。離れているから「手」を伸ばし、届こうとする。
 かけはなれたものを結びつけるものが「掟」ならば、掟とはもともと人間を裏切るものでないといけないだろう。
 「理性」を裏切るもの、と言いなおすと、原初ギリシアになるか。「哲学」が誕生する以前のギリシア、「原初ギリシア」が生み出した「掟」。本能、あるいは野蛮な欲望。闇から伸ばされてくる手が世界をかき乱す。
 だからこそ、こんなふうにも書かれている。


どす黒い古い掟から逃れられない人間は いまも健在


 この「どす黒い古い掟」は「原初ギリシア」を言いなおしたものであり、高橋はそれを最終行で「無意識」と言い換えていることになる。「無意識」を
「暗い/その先」として、それを自分のなかで呼びさます。

 しかし、この「無意識」が「中世日本」と関係しているのかどうか、私にはわからない。「武士」が誕生する前には、日本にはなかった意識なのか。なぜ、高橋は「中世日本」を、この詩のなかに盛り込んだのか。