由良佐知子『遠い手』 | 詩はどこにあるか

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由良佐知子『遠い手』(澪標、2018年08月08日発行)

 由良佐知子『遠い手』の「ひらく」に惹かれた。


乳房をまさぐる赤児のように
枯れ葉のなかに手を入れる
ふっくらとした ちからで
土を押しあげる
蕗のとう
受けつぐ場所を萌黄に灯す

震う大気を合図に
シデの新芽は
固く折りたたんだ葉をほぐす

規則あるものからはみだそうと
てんでばらばらに
春は開く

押しあげたあなたは
なにもかも
忘れていいのだ


 蕗の薹を描いている。「乳房をまさぐる赤児のように」というのは一種の「定型」だが、定型からはじめることで、不思議な静かさをひきよせている。「受けつぐ場所を萌黄に灯す」は美しい。
 詩は、いつでもこういう美しい行を持っている。
 でも、引き寄せられたのは、そこではない。
 三、四連目がいい。
 「規則」から「はみだす」を「てんでばらばら」と言いなおしている。口語で言いなおすことで、たぶん由良の「肉体」が開いたのだと思う。「肉体」のなかにあることばが解き放たれて、跳びだしてくる。
 「押しあげたあなた」の「押しあげた」は一連目の「土を押しあげる」を踏まえている。そのあと、


なにもかも
忘れていいのだ


 ここが感動的だ。
 「忘れていいのだ」と由良は書いているが、何を忘れるというのだろうか。「忘れる」という限りは、覚えているものがあるはずだ。由良は、蕗の薹は何を覚えているというのだろうか。「乳房」とか「受けつぐ」ということばを手がかりにすれば「いのち」がつながっているということを「覚えている」ということになるかもしれない。
 しかし、そういうことは、どうでもいい。
 「なにもかも/忘れていいのだ」から。
 では、このなにもかも忘れるというのは、どういうことなのだろうか。
 新しく生まれる。生まれ変わる、ということだ。ぜんぜん知らないものに。自分の予想もしていないものに。あるいは「親」が予想(期待)もしていないものに、と言えばいいだろうか。
 すべてを裏切って、蕗の薹は蕗の薹でなくなってしまってもいいのだ。

 私は由良のことを一切知らない。由良にこどもがいるかどうかも知らない。けれど、あ、これは母親になった人間にしか言えないことばだなと感じた。
 母の胎内で育ってきた、母親の肉体の中から生まれてきた。それは事実だが、そういう事実はどうでもいい。おぎゃーと泣き叫んだときから、ひとは自分の声をもつ。その声を信じて生きればそれでいい。何になろうが、それは生まれてきたこどもの自由だ。「規則」なんて気にしないで「てんでばらばら」に生きればいい。
 これは母親にしか言えない、強いことばだ。

 「毬」の前半も好きだ。


茶色い毬栗を写す
棘とげ一本いっぽん描いていく
青い毬を
隠れる実を
身になる前の
朝もやの栗林
無数に蒸れる花房
群がる蜂
さんざめく羽音


 「時間」が逆に動いている。茶色い栗を写生しているのに、その「表面」ではなく、栗の毬が茶色になるまでの時間をさかのぼって見つめなおしている。いま、ここにあるものが、いまここにやってくるまでの「時間」を自分の時間を見つめなおすように思い出している。写生とは、そういう目に見えない時間を立ち上がらせることだ。
 こどもの成長を見守るというのは、こういう視線を持つことかもしれない。
 どんな成長にも「規則」が知らず知らずに入り込む。そう知っているからこそ、「規則」を突き破って、「てんでばらばら」に、新しいところへ踏み出せと言っているのだ。


 


*

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