高橋睦郎『つい昨日のこと』(51) | 詩はどこにあるか

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51 眠りの中で

 「こんどの旅も よく眠った」と書き出されるこの詩には、死への親和が明確に書かれている。二度の旅のあいだに、高橋は三十歳から八十歳に変化している。年齢だけではなく、ほかにも違いがある。


見守っているのが 愛の神ではなく
愛の神のふりをした 死の神だったこと


 三十歳のときは「愛の神」に見守られて眠った。八十歳のいまは「愛の神のふりをした 死の神」に見守られて眠った、という。死ぬ年齢に近づいたから「死の神」に見守られている、というのではない。
 高橋が〇歳から三十歳までのあいだに読んだ「古典」と、三十歳から八十歳のあいだに読んだ「古典」を想像してみればわかる。後者の方が圧倒的に量が多いだろう。つまり、圧倒的な死と高橋は向き合ってきた。その死との向き合い方の違いが、死への親和を誘う。死の神がやってくるのではなく、死の神を高橋が招いている。
 なぜ、死の神を招くのか。高橋は、こう書いている。


うつらうつら眠りつつ 私は気づいていた
死の神が 愛の神よりはるかに優しく
はるかに若わかしいこと


 「若い」からこそ招いたのだ。「若い(若わかしい)」の定義はむずかしい。「可能性」があるということが、その定義のひとつになるだろう。自己を捨てて、何者かにかわっていく力だ。
 「古典」は古い。動かない。しかし、それは「古典」を「名詞(存在)」として見つめるからである。「古典」を「名づける」という「動詞」としてとらえなおせば、高橋の書いていることがわかる。
 どんなふうに名づけようが、名前は古びる。比喩は定型化する。しかし、「名づける」「比喩を生み出す」という動詞は、つねに「いま」として動いている。ことばを読むとき、そこに「名詞(もの)」があらわれてくると同時に、そのまわりには「動詞(行動)」が動いている。「動詞」のなかには「過去」はない。固定化されたものはない。動くことが「動詞」だからだ。それはいつも「いま」を生み出す。
 そういう力そのものと高橋は向き合っている。「死の神」だけれど、それは「生まれつづける」存在だ。「愛の神」も生まれつづけるだろうが、それは死んで行く神でもある。「死の神」は死んでいるだけに、さらに死ぬというとはない。生まれつづけるしかないのが「死の神」だ。