高橋睦郎『つい昨日のこと』(52) | 詩はどこにあるか

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                         2018年08月29日(水曜日)

52 倖せ それとも

 「古典/死」は「若々しい」というのは、矛盾に見えるかもしれない。しかし、矛盾ではない。「事実」だ。
 高橋は、こう書いている。


Kourous たちよ Koreたちよ
あなたがたは人間にして 神神
あなたがたのかけがえのない 尊い犠牲によって
かろうじて いまここに私たちは在るのだから


 「いまここに」「在る」。「いまここを」経験する。体験する。そうすることで私たちは老いていく。古びて行く。肉体も経験(体験)も古びていく。
 しかし人間には経験(体験)することができないことがある。だれもが死ぬが、死を経験/体験することはできない。それをことばにはできない。いつまでたっても、それはたどりつけない未知の部分だ。
 「過去」もそうなのだ。「人間/神」として生きた人がいる。その人は死んでしまった。それは「知る」ことができるが、経験/体験ではない。ただ、ことばを通して経験/体験したと勘違いするだけのことである。
 やはり「未知」なのだ。
 だから若々しい。

 経験/体験できないけれど、「事実」として、「いま、ここに」「在る」ものが「古典」という不思議な「死」である。

 途中を省略する。


その結果 私たちは永遠に宙ぶらりん


 「ことばになった死(古典)」と「体験するのにことばにできない死」のあいだが、「宙ぶらりん」の状態を生きる。死んだ人のことばを引き継ぐというのは、「名づける」ときの若さを引き継ぐことだ。語ることの情熱を引き継ぐことだ。
 自分の死をことばにできないのなら、死んだ人のことばの、その動いていく動きの中に「死(生き方)」をつかみとるしかない。「古典」は「生き方」だから、いつも「若々しい」。