
Ombra mai fu
王は木陰にいる
殺戮の旅から帰ってきたばかりだが
心はそこにはない
妃の不義を疑う苦しみが
王の心を塞いでいる
木の間に囀る小鳥たち
そんな細密画の筆を置いて
少年は井戸へ指を洗いに行く
祖父の残した手本は
時代遅れだと少年は思う
王はもう木陰になんかいやしない
妃とジェット機で雲の上だ
こんな断片では捉えられない真実を
詩は生み出せるだろうか
時に侵されぬ言葉を信じて
一瞬をフリーズドライしようと
古ぼけたラップトップを膝に
老詩人は木陰にいる
「ぬらぬら」の三連目について、すべての「時間」は意識にとっては「同時」であるというようなことを書いた。「大正時代」も「三日前」も「小学生時代」も「バッハの時代」も、その「時間」を思い起こすとき、「いま」と瞬間的につながり、どの時間が先、どの時間が後とということはない。
この区別のなさは「時間」だけではない。谷川の詩には、ときどき少年、犬、女性、老人がそれぞれの一行の主語になりながら駆け抜けていくときがある。そのとき、それぞれの主語はたしかに少年、犬、女性、老人なのだが「ぬらぬら」の「時間」のように「方便」として区別されているだけで、ほんとうは「ひとつ(ひとり)」である。瞬間的に、谷川は少年になり、犬になり、女性になり、老人になる。それらをつらぬく「いのち」になる。
「主語」あるいは「時間」が変われば、当然、描写も変わる。けれど、その変化を超えて動いているものは変わらない。一貫している、ということがある。
この詩も、その視点で読むことができる。
一連目の主語は「王」。そして、王は木陰に「いる」のだが、「心」はそこ(木陰)には「ない(いない)」。王の「心」は妃の不義を疑う苦しみのなかに「ある」。
二連目の主語は「少年」。一連目を「絵」のなかの物語にしてことばが動いている。少年は絵を摸写して「いる」。しかし、「心」はそこ(絵のなか)には「ない」。そんな絵は絵の手本としては「時代後れだ」と思っている。少年の「心」はそういう「批判」のなかに「ある」。
三連目の主語は「老詩人」。谷川だろうか。一連目、二連目を「物語」の断片としてながめている。描写している。そこには「物語」としての「ことば」が「ある」。しかし、谷川の「心」はその「ことば」のなかには「ない」。そんなことばの断片では真実は捉えられ「ない」と思っている。そして、それを超える詩が「ある」、詩を生み出せるどうか考えている。書こうとしている。
三つの連は「入れ子細工」のようになっている。一連目を二連目がつつみ、二連目を三連目がつつむ。同心円がみっつ描かれている「構造」になっている。
三つの連(同心円)のなかで、「いる(ある)」「ない」「ある」が同じように動いている。その前にある「現実」がある。しかし、「心」はその「現実」を否定し(現実を「ない」という状態にして、違うところで動く。つまり違う場に「心」が「ある」と書いている。
繰り返されることで、その繰り返されたことが、それぞれの「ひとつ」の状況を乗り越えていくといえばいいのか、その中心に入っていくといえばいいのかわからないが、その「動き」そのものを存在させる。「運動のあり方/運動の論理」を浮かび上がらせる。
谷川の詩は、とても「論理的」な部分が多いが、それは谷川は、こういう「主語」を変化させながらおなじ「運動」を繰り返し書くからでもある。繰り返せば、そこに必ず繰り返しを貫く「論理」が生まれてしまう。
それは「散文」でも「詩」でも同じことだ。
ただし、谷川は、そうやって「生まれてしまう論理」を、常に破ろうとしている。
一連目の最終行。「木の間に囀る小鳥たち」は「王の心」とは無関係である。人間の心とは無関係な、つまり非情な自然の姿を描いている。人間の「心」とは無関係なものが「ある」と告げている。
二連目の最終行は、「細密画」の王と妃とは無関係なことろに現代の王と妃は「いる」と告げている。
三連目の最終行。これは、ちょっと意地悪な行だが、老詩人の考えていることと「木陰」は無関係である。木陰でなくても書斎でも、そういうことは考えられるという意味で無関係である。
三連目は、そういう無関係をぱっと差し出しながら、同時に一連目の「王は木陰にいる」の「木陰」へと引き返し、先に書いた入れ子細工(同心円)の構造を一基に逆転させる。最初に老詩人が木陰にいて、その木陰から妃の不義に思い悩む王のことを詩に書こうとしたのだと感じさせる。あるいは、詩を書くことは王が妃の不義を疑い苦しむということに似ていると読むこともできる。「ある」か「ない」かわからないものから、「真実」を探し出す(生み出す)ということばの運動へ動き出す詩を書こうとしたのだと感じさせる。
追いつづけてきた「論理」を、谷川はそんな風にひっくりかえしてみせる。そうすることで「論理」を宙ぶらりんにしてしまう。「論理」からことばを解放すると言い換えることもできる。
この詩を読みながら、私は、またほかのことも考えた。
こんな断片では捉えられない真実を
詩は生み出せるだろうか
三連目のこの二行からは、「詩は真実を生み出すもの」という「定義」を引き出すことができる。真実を「語る/告げる」ではなく「生み出す」。そこに谷川の思想がある。
さらに、その二行につづく「時に侵されぬ言葉」は「時間」を超えることばを追い求めるという姿勢を語ったものである。「時に侵されぬ/時間を超える」は「時代後れ」にならないと同時に「いま」にまみれてしまわない、でもある。「いま」を書きながら、「いま」にまみれない--それを谷川は「一瞬をフリーズドライ」すると呼んでいる。この「一瞬をフリーズドライ」するという表現は、「放課後」の
窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている
校庭に男女の生徒たちが静止(フリーズ)している
を思い起こさせる。この「静止(フリーズ)」は「放課後」の最終連では、詩によって「激しく動きはじめる」ものになっている。そしてそれは「和音に乗って旋律がからだに入ってくる」とも書かれていた。「フリーズドライ」は書かれた楽譜、それがからだのなかに入ってくると、その瞬間、和音と旋律にかわる。その和音と旋律が「真実」であり、そんなふうに動くことばが詩なのだ、と谷川は「定義」していると、私は読みたい。
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谷川 俊太郎 | |
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