嵯峨信之を読む(75) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(75)

122 一本の葦

たつた一つの心をもてあまして
きゆうに明るくなる世界で自分のその姿を見るのは怖ろしい

 抽象的な書き出し。もてあましている心は、不安か、暗さか。あるいは怒りか、欲情か。次の行の「明るくなる」と「対」になって、不安定さが際立つ。「その姿」は「ひとつの心」の姿か、「もてあまして」いる姿か。「自分のその姿」と書いてあるので、「文法的」には心を「もてあましている自分の姿」なのだろうが、「心」そのものの姿のようにも見える。
 「自分の姿」を「見る」ということが、現実としては「鏡」か何かをつかわないと見えない、何かに姿を映してみる、という「間接的」な見方しかできないということも関係しているかもしれない。「自分の姿」を鏡なしで見るときは、「想像して」見るのである。そういう見方は「心」を見るときも同じだ。「直接」見るのではない。でも自分のことなので「直接」と感じる。この「間接」と「直接」の交錯のなかに、「比喩」が生まれてくる秘密があるかもしれない。
 嵯峨は「その姿」を「比喩」をつかって見つめなおしている。

汐が満ちはじめた入江の岸で一本の葦が身をゆすつている
多くの静かな葦のなかでその一本だけがどうして顫えるのだろう
おなじ日の生のなかでその葦だけがまだ何か掴めないのだ
その全身を顫わせて求めているものは何んだろう

 「葦」。「人間は考える葦である」の葦だろう。「一本だけが顫える」は「心」のなかのいろいろな思いのなかの「ひとつ」だけが「顫える」と読むことができる。
 「自分自身の肉体」は「ひとつ」。けれど「心」はいくつもある。そのひとつが「顫える」と読むと、最初に感じた疑問、「その姿」はますます「心」のように見えてくる。
 その「心」だけが何かを掴めない。そのために「不安」である。いくつもある「心」なのだから、その「ひとつ」は見えなくてもいいのに……。実際、楽しいことがあったりすると、その「心」はどこかに消えているのだが、その隠れているものが、ある瞬間、ふいにあらわれてきて、人間を苦しめる。

嵯峨信之全詩集
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思潮社