87 小品
ここからは「小品」という章の作品。
その章の冒頭の「小品」にも「死」が登場する。
なぜ、嵯峨は死を書くのだろう。「肉体」の死を私たちは現実には体験できない。他人の死を知ることはできても自分の死を知ることはできない。一方、精神といえばいいのか、思考といえばいいのか、あるいは感覚といえばいいのか、そういうものの「死」は体験することができる。それまで動いていたものが突然動かなくなる。とまってしまう。それはふたたび動き出すかもしれないが、その停止の「瞬間」を私たちは「死」と「比喩」で呼ぶことがあると思う。
嵯峨の書いている「死」は、そういう「比喩」としての「死」かもしれない。
ぼくがおまえに直言するとおもうな
ぼくは死者の口を通してそれをおまえに告げる
そして死者だけが槍の重さを知る
三行の詩だが、わからないところだらけである。「ぼく」を嵯峨自身と想定して読みはじめる。そのとき「おまえ」とはだれだろうか。友人か、恋人か、あるいはこの詩を読んでいる読者だろうか。
私はこの「おまえ」も嵯峨なのだと直感的に思う。嵯峨が嵯峨自身に対して「おまえ」と語りかけている。
そのとき「直言」ということばが問題になる。自問・自答。そのときかわされる「自己批判」。これを「直言」と言っていいのか。「直言する」なら、そうかもしれないが、「直言するとおもうな」と否定している。直言しないと言っている。このときも「批判しない」という「意味」が成り立つかもしれないが、私の直観は、それは違うと言っている。
私の直観の意見にしたがえば、この「直言」は「比喩」。そして「直言」しないなら、どんなふうに対話するのか。「直言」とは違うことば、たとえば「詩」をとおして真実を語る、と言っているのではないだろうか。「直言」は「詩」の裏返しの直喩である。(学校教育の鑑賞方法としては、こういう表現を「直喩」とは言わないのだが、私はあることばがそのまま言い換えられたものを「直喩」と呼んでみたい。数学でA+3=5のとき、Aは2である。このときのAは2の「直喩」というくらいの意味である。)
ぼくはおまえに(自分自身に)直言はしない。直接批判したりはしない。そのかわり詩を語る。2+3=5というかわりにA+3=5という具合に、2をAとして語る。
そのときA(2の直喩)は、死者の見たものである。死者の口がA(2の直喩)と語っているである。死者によってAは絶対的な「数字=真実」になる。死者がつかみとった真実なのだから、それは変わりようがない。変化しない絶対的存在がAなのだ。ほかのことがらは変化するが、Aは変わらない。A+3=5、A+4=6、A×3=6……。
あ、私の「例」は詭弁のようなものかもしれないが、私は、直感的にそんなことを感じたのである。
二行目の「それをおまえに告げる」は「直言」をしないかわりに、真実を別な形で、つまり死者を通して語ると言っている。詩を通して、おまえに語ると言っている。二行目は一行目の言い直しなのである。
三行目はどう読むか。「槍の重さ」とは何か。これは「真実」の「直喩」である。「絶対的な存在」の「直喩」である。人間に死をもたらした「絶対的な存在=永遠」が「槍の重さ」。それによって、人間は、もうそれ以上「変化」することができなくなった。「死者」とは永遠に変化しない人間のことなのだ。
こう読むと、この詩は「矛盾」に満ちていることがわかる。全体的真実(永遠)に触れたら、人間は完全に変化してしまう。死者になってしまう。人間は生きているから人間なのであって、死んでしまえば人間ではない。死んでしまっては「真実」に触れる意味がない。「真実」に触れながら、生きていなければ「真実」など必要ないだろう。でも、人間には生きていくために「真実」が必要なのだ。「絶対的」な何かが必要なのだ。それがないと、どう生きていいかわからない。
詩はわからないとよく言われる。「現代詩はわからない」と言いなおした方がいいのかもしれないが。そして嵯峨の書いている作品は、すこし「現代詩」と呼ばれるものとは傾向が違っているかもしれない。抒情的でわかりやすいと思われているかもしれないが、よくよむと、やっぱりわからないところだらけである。そして、それがわからないからこそ、そこに「真実」が書かれているようにも感じる。
わからない何か、ことばのひとつひとつはわかるのに、全体としてはわからないものが、わからないままぶつかってくる。そのときの衝撃--そこに詩があるのかもしれない。
別の断章。
たつた一つしかないぼくの地平線を
昨日ぼくはふいに見失つた
それつきりぼくの叫びは砂になつた
「地平線」に「ぼくの」ということばがついている。その「ぼくの」によって詩は始まる。だれのものでもない「ぼくの」もの。所有というよりも特別な関係がある。思い入れ。親密な何か。それはしかし、「地平線」に向けられたことばではないかもしれない。自分自身へ向けられたことば。「地平線」ではなく、「水平線」であってもいいし、木であっても坂であっても信号であってもいいのだ。「ぼく」自身を意識するための手がかりがたまたま「地平線」ということばといっしょに現われている。「地平線」があって「ぼく」がいるのではなく、「ぼく」が「地平線」を生み出しているのだ。
「ぼく」「ぼく」「ぼく」と書き出しの三行に、それぞれ「ぼく」が出てくるのは、ことに書かれていることはすべて「ぼく」が生み出したことがらであることを証明していると思う。
「ぼく」は「ぼく」が生み出した「地平線」を失った。「ぼくの叫び」は「地平線」を必要としていた。何かを遠くへ叫ぶために生み出されたものが(仮定の遠い場所が地平線だったのだろう)、消えてしまった。「地平線」があったとき、「叫び」は「石」のようなものだったかもしれない。遠くへ投げつけることのできる「塊」だったかもしれない。しかし、「地平線」が消えてしまうと、その「石」は投げることができない。そして「砂」になってくずれていく。「砂になつて」の「なる」という「動詞」から、私はそんなふうに考えた。
この「地平線」と「石(書かれていないけれど、何かの塊)=叫びの比喩(あるいは直喩)」と「砂」、地平線が「消える」と砂に「なる」の「消える」「なる」の関係は、どちらが先が、実はよくわからない。詩は「地平線が消える」「叫び(石)が砂になる」という順序で書かれているが、「叫び(石)が砂になる」が先で、その結果として「地平線が消える」ということがあるかもしれない。
時系列(時間の前後関係)よりも、そういう「こと」が「ぼく」というひとりの人間の中で起きるということが大事なのだ。「ぼく」が「ぼく」であることが、この詩を支えている。「地平線/叫び/砂」という別個の存在、「消える/なる」という別の動詞が「ぼく」という「肉体」のなかで「ひとつ」になり、その「ひとつ」の「場」を通って、一行ごとに別の姿で現われなおしている。この濃密な凝縮した「ぼく」のあり方が詩なのだ。
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