「咳」ということばがあった。部屋の隅で、はっきりと自己主張した。それが前後の沈黙を分けた。
薄暗い部屋のなかで少しずつたまってきた沈黙が、ゆっくりと距離を測っている。近づいてそろそろ手を取り合おうとする瞬間だった。
誰かが見張っている。
どう動いていいのか、だれもわからない。わからないまま、沈黙が固くなった。
椅子がガタンという音を立てた。
「咳」ということばが、さっきとは反対の部屋の隅で動いた。振り向かずに、肉眼ではない眼で見ているひとの、のどのやわらかさを感じさせる「咳」だ。(そのように描写しようとして、何度も書き直した様子がノートに残っている。)
けれど、一度変化してしまった沈黙はもとにはもどれない。
「咳」ということばがあった。
ひとりが立ち上がり、そっと歩きはじめる。抑えても、抑えても、足音がはみだしてしまう。そのひとの内部の沈黙は、それ以上に荒らされている。荒れている。
足音が、一呼吸、とまる。
その一呼吸を消すようにして「咳」。
だれのものかは読者の判断に任された、その「咳」ということば。
形容詞はついていない。
「咳」ということばがあった。
はばかることなく足音を響かせ、ドアを締めるときに、合図をするように発せられたその咳ではなく、
「のどにつまったままの」という修飾語が「咳」ということば。
「沈黙でさえない」沈黙の孤独ということばに沈んでいく。
*
![]() | 谷川俊太郎の『こころ』を読む |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
ヤニス・リッツォス | |
作品社 |
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。