破棄されたの詩のための注釈(33) | 詩はどこにあるか

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破棄されたの詩のための注釈(33)

「たとえば」ということばがあった。「たとえば」について最初に語ったのは鳥の顔をした男であった。「ことばにはそれぞれ性質というものがあって、たとえば『たとえば』と言えば、私の場合は冒険好きで気まぐれだ。」鳥の顔をした男の「たとえば」は、つまり「机の上の鉛筆の角度を語っていたかと思えば、次の瞬間には犬が見上げる角度になり、リードを強引に引っぱり川原へ下りてゆく。それから、土の中から目覚めたばかりの蛙をつかまえて私を驚かす。」

「たとえば」ということばがあった。たとえば私の「たとえば」が。それは、逃走しようとしたが、鳥の顔をした男は上空から蛙をつかまえる角度で急降下すると「きみの場合、『たとえば』は非常に臆病で、いま私が語っている『たとえば』の寓話は、ことばの性質ではなくて、ことばをつかう人間の癖、文体のことだろうと判断する。つまり、問題をすりかえ、鉛筆で架空の紙にメモをする。架空の紙に書くのは、それが記録として残ってはこまるからだ。記録したくない。けれど、記憶したい。たとえば、そんなレトリックの中に隠れようとする。」

「たとえば」ということばがあった。「たとえば、論理を構築すると感情は衰弱する。感情を具体的に書こうとすると論理はくずれる。『たとえば』ということばは、論理を継続するというよりも切断し飛躍させるときにつかうと効果的である。感情を切断するふりをして、感情のさらに奥にある生まれる前の感情を引きずり出す力もある。」これは、鳥の顔をした男の文体を拒絶した女が書いていた「例文」である。